過去の研究日誌3

過去の研究日誌 三冊目


 二〇〇一年五月一日(火)

 最近、漫画しか買っていないな、と反省して、今月は漫画は買わないことを決意した。
 取り敢えず、「活字倶楽部」で特集が組まれていた北方謙三「さらば、荒野」を読了。
 これがハードボイルドなのだろうか。ええかっこしいの話だなあ、と思ったが、不愉快なほどではなかった気がする。  「この人は次の巻からも活躍するのだろうか」と思われていた人が次々に、しかも最後の一言など言えずに死んでいったのには、ある意味ホラーより怖い。
 名前のあるキャラクターの生存確率、半分を割っていないか?


 二〇〇一年四月二十三日(月)

 キャラ○ルコーンはたまに食べるとおいしい。

 私はフェミニストかどうかは分からない。女性であるというだけで不当な扱いを受けたら憤る程度である。
 昨日、名前はメモし忘れたが、とある作家の女性がテレビに出て、自民党総裁選挙の立候補者の一人に、
 「もしあなたが総理になったら女性の大臣を増やすということですが、私としては人間の半分は女性なので、女性の大臣の数も全体の半分にして欲しい」
 「あなたは先日、男だからやる、というようなことをおっしゃっていたが、それは女はやらない、ということか」
 というようなことを言っていて、呆れた。
 前者については、確かに人類のほぼ半分は女だが、だからといって政治家の半数が女性であるとは限らないし、大臣を勤め上げられるだけの強靭な精神を持っている女性の政治家が、半数を埋められるほどに存在するかは疑わしい。
 後者については、あまりにも言葉尻を捉えた発言で、反論するのも女として情けない。
 しかし、後者に対する政治家の反論ももたついていて、
 「ええい、私はご覧の通り男として生まれていますからそう発言したんです、女性に生まれていたら女としてやる、というような発言をしましたよ、と言えば終わりだろうが」
 と憤る。
 憤りながらチャンネルを変えたら、ゾロの顔が画面に映る。
 「・・・しまった、『ONE PIECE』の時間だった!」
 一瞬で他の全てを忘れた私は、絶対にフェミニストじゃないな、こりゃ。

 こりゃ、で思い出したが、今日の猪狩弁護士のドラマは見なければ。
 もっとも、いかりや長介は猪狩弁護士のイメージではないので不安だ。


 二〇〇一年四月十二日(木)

 最近、映画の話題をよくしているが、それは単に今まであまり観ていなかった反動であって、時には己の恐ろしい無知に気付く時もある。
 多分、「マスク・オブ・ゾロ」のディエゴ(師匠ゾロの方)を演じていた人が「ハンニバル」のレクター博士を演じた人物と同じアンソニー・ホプキンズだと知らなかったのは、世界でも私ぐらいだろう。
 何しろ「ハンニバル」はおろか、「羊たちの沈黙」すらまだ観ていないのだ、私は(観なさい)。

 この様子だと、世紀をまたがった大ぼけはまだありそうで、今から楽しみである。という事にしておこう。


 二〇〇一年四月九日(月)

 ショ○ラクッキーのストロベリーは甘味がくどい。ココアは美味しい。

 観たい映画が多い、という話は更新記録の方でしたが、観に行く暇はいくらでも作れるのにお金がないので多分あの日挙げた中で観られるのは一つか、全て観られないかのどちらかだろう。
 宮崎克・高橋ヨシヒロ「松田優作物語」(秋田書店)を読んだ影響で一番観たいのは鈴木清順の映画なのだが、はたして三本分払う余裕はあるのか。

 「マリア様がみてる」を取り扱ったページを見てきたのだが、やはりファンは二種類に分かれるらしい。私のように、別に登場人物の誰かが男性と結ばれても喜びこそすれ怒ることなどない人間。もう一つは男性と結ばれるのを非常に不満に思う人間。
 あからさまに書けば、後者は「この話は百合だと思っていたのに男とくっつけるなんて」と思われる方々である。
 そういう方々は新刊を読んで喜んだんだろうな、と思うと苛立ってしまい、何だかまともに読めなかった。
 原作を読んで妄想するのは人の自由だし、私もしているが、原作を妄想と比較して意見を述べるのは何だか妙だと思う。
 「マリアさまが見てる」は百合も扱っているけれど、主体は百合じゃない。話の中で同性愛者であることがきちんと書かれた聖を除けば、リリアンの生徒は全員、異性愛者だ。
 女子高を舞台にした少女達の交流を描く話だからといって、それは百合だ、というのはあまりにも短絡的だし、交流の表現を狭めてしまうような気がする。
 男子校を舞台にした少年達の交流を描いた話があるとしても、それが必ずしもやおいでないのと同じである。
 という私の考えはここで明らかにしておこう。してどうにかなるものでもないのが悲しい。

 


 二〇〇一年四月六日(金)

 唐突だが、私は史学科を出ている。専門は東洋史だった。
 だから今、結構騒がれている歴史教科書の件には注目しているし、下に書いた通り四日には、定期購読紙である陽が上るよ新聞を何度も読み返したものである。
 が、何かが変だ、と思った。歴史を取り扱っている割には、冷静さに欠けている人が多いように思うのだ。
 実際問題、いい加減に勉強して大学を出た私でも、新聞に載っていたどこぞの教授の感情的な意見に反対できそうなのだから笑ってしまう。勿論、知識はあやふやなので、色々と調べなければきちんとした反論は出来ないし、ましてや口頭で言い争うなんてとても出来ないが。
 ひょっとしたら、近現代を歴史で取り扱うのは早すぎるのかもしれない。歴史を研究する者の今日に大きく繋がっているので、無意識の内に感情を込めてしまう危険性があるのだ。
 思惑を込めるのはいい。けれどそれはあくまで冷静に、且つ一歩主観から一歩退いたところで織り込むべきもので、感情を込めて書いた文章など、出来映えとしては最低のものになる。
 この事は又書きたいと思う。

 さて、「エリザベス」だ。先日、オークションで落札したビデオが無事届いたので喜んでいる。
 私は以前から気になっていたこの話を昨年末にようやく見て以来、困ってしまうぐらい好きになったのだが、どこが好きかというと、敵役がいないのだ、実は。
 エリザベスの姉のメアリーも、エリザベスを殺そうと絶えず思っている一方で、夫の愛を得られず部下に侮られていたのも分かっていながら自暴自棄の芝居を打たずにはいられなかった人、という描き方をされている。
 フランス、スペイン、バチカン、英国内部、それぞれにエリザベスから王権(もしくは命)を奪おうとするが、それぞれに野心や信念に基づいたもので、ある意味非常に潔い生き方だ。
 というか、師父ともいえる存在も、恋人も切り捨てたエリザベスが唯一その手の中に残した存在が、拷問監禁を平然とする男だったのがこの話のみそだったりするのだが。

 終盤、己の歩もうとしている道の残酷さに泣くエリザベスに、その男、・・・ウォルシンガムが手を伸ばそうとして止める場面がとても好きである。
 彼は自分の腕の中で泣く女を得なかった代わりに、ずっと求めていた君主と仰ぐ存在を手に入れたのだ、と思いたい。
 エリザベスがバージンクイーンとなり、君主の椅子から皆を見下ろす時、映像は一瞬だけそれを見ているウォルシンガムに切り替わり、又エリザベスに戻る。それも、彼らの人生を象徴しているように思えてならない。英国の輝ける存在となるエリザベスと、それを見守るウォルシンガムと。
 だから、エピローグの「ウォルシンガムは最後まで忠を尽くした」の文には心から安堵する。
 エリザベスが最後にロバートの名を呼んだ、という文も、バージンクイーンとなってもなお人間性は失われなかったのが分かって、それもとても好きである。

 池田理代子先生が映画公開に合わせて描かれた「エリザベス」も読んだけれど、映画に比べると人間描写が俗臭いものになっていてつまらなかった。


 二〇〇一年四月四日(水)

 世の中で一番不愉快な意見というのは、自分と同じ意見にも関わらず反対意見者に対する礼儀を欠いた意見だと知る今日この頃、Mr.2の日に皆さんはお元気でしょうか。

 新刊も出ることだし、と、「マリア様がみてる いとしき歳月(前編)」の感想を他のサイトさんで見てきたら、打ちのめされた。
 私は単純に展開を喜んでいたのに、巷では「どうしてこの話で普通に男女が結ばれる話を読まねばならないのか、それより他にもっと書くことがあるだろう」という文句が主流のようなのである。
 ・・・まあ、「いつまでも薔薇様方は卒業しないで、今の年の話をずっと続けて欲しい」などという意見に対して、「それじゃあ祐巳達は成長するな、ということか」と思っていた私なので、他のことでも意見が巷と大いに食い違うのは当たり前かもしれない。
 でもへこんだ。

 ところで、某大手新聞朝刊の某書に対する一大キャンペーン(一面トップから見開きから)は、吐き気を通り越して読む者に絶望すら感じさせていることに気付かないのだろうか。
 叩かれている会の会長さんの意見が一番理性と説得力を感じさせる、というのもなんだかな、である。


 二〇〇一年三月三十一日(土)

 明日からは職業欄に「無職」と書かねばならない私である。しかし、一番最初にそれを書くだろう機会が雑誌のアンケートというのは情けなくはないか。
 ところで、時々悩んでいる。人様が読む日誌で一人悩み相談室を開くのも虚しいが、悩んでいると告白してしまおう。
 私はかなり俗な人間である。しかもこう書くのもなんだが、ミーハーだ。更には人に好き嫌いを面と向かって言えない。
 だから、少女漫画も少年漫画も青年誌もやおいも同人誌も女性週刊誌もハーレクインも好んで読んでいても(本当はもっと読んでいるが)、一つ一つのジャンルに合わせた交流を持つしかない。
 当たり前だ。一体、通りすがりの他人に何を求めている?

 つらいのは、例えば少女漫画が好きな人がハーレクインをけなしたり、逆に少年漫画を好きな人が少女漫画を軽蔑していたりする書きこみを発見する瞬間だ。
 やおいはけなしていい。というか、仮にも一度は書いてみた身としては、がプリントアウトした紙をご家族が発見なさったその場で「何だこれは!?」と怒り狂って破り捨てるような物を書きたいと真剣に思う。
 知っていてもなおも軽蔑してしまうようなものが、やおいにはある。
 が、まあ、一般に受け入れられて良いんじゃないか、というジャンルについて、頭ごなしにけなされると、何と言ってよいものかわからない(や、やっと本題に入れた)。
 「こんなもの、○○で連載しろ」という罵倒を何度目にしたことだろう。
 ○○はあなたの考えているような雑誌じゃない、一度読んで欲しいと言いたいが、何となく口をつぐんでしまう。
 どうすればいいんだと、つい目が遠くなる今日この頃である。

 今日は愚痴のようになってしまった。
 ○ハトのショ○ラクッキーは本当に口に溶けた。感動。


 二〇〇一年三月二十六日(月)

 BGMはサザンオールスターズの「TSUNAMI」をお願いしたい。題名は傘と劇場と私、というところか。
 昨日、「デジモンアドベンチャー02」と「ONE PIECE」の劇場版を観に行ったのである。
 どういう訳か、私が映画を観に行った時は必ず雨である。エヴァの春と夏の劇場版、エントラップメント、オータム・イン・ニューヨーク、顔、ダンサー・イン・ザ・ダーク。ここ数年で観に行った映画の全てだが、全部雨天だった。七回も続けばこれはもうジンクスだろう。それとも、雨天を迎え入れる自分の感覚の何かが劇場へと向かわせているのかもしれない。
 で、映画である。
 ところで皆さん、劇場で映画を観るときは、後ろの方の迷惑にならないように頭を下げましょうね。「下げてください」と頼んでも「見えるだろう」と開き直られ、泣く泣く移動した人間からのお願いです(その男性の頭は移動した後も邪魔だった・・・)。
 例によって隠します。

 「ジャンゴのダンス天国」は今一つだった。話らしき話が何もなかったのだから、どうせ気合を入れるなら、もっとダンスを見せて欲しかったと思う。そう思わせてくれたジャンゴのダンスに拍手したい。

 「デジモン」は、今回の三本のアニメでは一番くるくると動いていたように思う。かといって話が上出来だったわけではない。
 群衆のパニックをもう少し書き込むべきだったのでは、と思う。東京湾へ向かえ、というメッセージに、明らかに危険なのに向かうわ、「どいてくれ」というような事を言われてどいてあげるわ(しかも本人達が行きたい所に向かって左右に)、携帯電話を掲げろ、なんて怪しい指示に従ってくれるわ、大変素直な人達である。
 後、少女が敵キャラクターの所へ向かったのを、少年の一人が「放っておけない」と駆けつけようとしていたが、自分の持ち場を離れてまで(そのせいで自分達が敗北する可能性もあるというのに)駆けつけられたら、少女の心境はかなり複雑だと思う。しかも、少女が負傷していたのを見て居ても立ってもいられず、とかなら分かるが、無傷の状態のときにそんな事を思われていてもなあ。「そんなに私の事信用できない?」と責められても文句が言えないぞ、少年。

 さて「ねじまき島の冒険」である。正直言って一番楽しめた。とはいえ、文句が無かったわけではない。
 これも、時間に対してキャラクターが多すぎるのを感じた。思い切って、ルフィ一行対トランプ海賊団、という事にして、じっくり戦いを描いた方が良くなかっただろうか。逆に、トランプ海賊団を無くしてもいいのだけれど、それだと戦いがなくて見ている子供達がだれるだろうから没だろう。
 ボロードとアキースの泥棒兄弟も悪くは無かったといえる。ラストではちょっとくるものがあった。
 が、アキースの過剰なボロード第一主義が鼻についたのと(ウソップが彼を「足手まとい」と責めた場面が、三本の中で一番胸がすかっとしてしまった瞬間だった私)、ルフィとゾロが罠にかかったのを二人がそれぞれ助けてくれなかった辺りで興醒めしてしまった。ルフィやゾロで無かったらあっという間に死んでいる罠だったのに、あれは。・・・ひょっとして、ゾロ達の服代を払わされたし返しか?
 それと、女性の描写に少々品の無いものを感じたのは私だけだろうか?オープニングの水着姿のナミしかり、なぜがお風呂に入っていたハニークィーン初登場しかり。
 そのナミ対ハニークィーンはもっと描写が欲しかったかな。
 加えて、後半のゾロは明らかに人を殺しているが、これはどうだろうか。最後、ベアキングも死んだだろうし(いや、「ONE PIECE」は雷に打たれても死なない世界なので、ベアキングも案外生きているかもしれないが)。それがちょっと気になった。
 最後のルフィの怒りも感情移入できなかったし。
 噂となっていたサンジとナミの描写であるが、本当にそうだった。でも結局、サンジの言動にナミが呆れてしまう、という所に落ち着くのがいかにもこの二人らしくて笑ってしまった。観ながら、「サンジ、そこはそうじゃないだろうが!」と心の中で突っ込みを入れ続けて、出来の悪い弟を持った気分を味わっていた私である。

 結論は、三本とも、もっと時間が欲しかった、という所だろうか。
 しかし、一番興奮したのが「ねじまき島の冒険」のエンディングで、これから出てくるキャラクターがわらわらと出てきたことだった、というのは間違っていないか。
 ちなみにエンディングに入った途端、どこぞのご家族が劇場内に入ってこられて、しかも私の前で立ち止まってくださったので、エースのお兄さんはちらりと確認できた程度、ミス・オールサンデーは奇跡的に発見。
 そしてクロコダイルはいたかどうか分からなかった。
 ああ、いたのだろうか。あの時、恥も外聞のかなぐり捨てて「どいてください」と言えれば、・・・いや、それはそれで別のものも一緒に捨ててしまいそうな問題が。
 もういいや。クロコダイルは、ミス・オールサンデーを膝の上に乗せていた事にしてしまおう。ありがとう、そういう事にされてくれた乱入者の方々よ!これからも仲良く暮らしてください。
 勿論、今後の劇場版も家族一緒に観に行きつつ、ですよ。

 はい、ここまで。
 映画を純粋に楽しめない年齢に来たんだなあ、と感慨にふける。


 二〇〇一年三月二十四日(土)

 念の為、この日誌の企画の一つ、「モーニング娘。を全員見分けられるか」は続行中である。
 しかし全員見分けられるようになる前に、見分けられる数少ない存在である中澤裕子が卒業してしまうので、道はまだまだ遠かった。

 三月十五日に学生生活から卒業することとなったのだが、記念に学校から書き込んだはずの日誌が記録されていなかったことに気付く。とほほ。
 まあ、当日は卒業式に遅刻するわ、退場時に転ぶわ、ゼミの先生から挨拶もそこそこに逃げた筈が駅のホームでばったりお会いしてしまうわ(無論その後三宮まで延々と話すこととなる)、部活の飲み会で中国酒のソーダ割り全種類(といっても六つ)制覇してしまうわ、貰った花束は帰りに忘れるわ、と色々とあった。
 人生は厳しい。というか、自分で厳しくしているともいう。


 二〇〇一年三月十四日(水)

 アニメ版「ONE PIECE」が日曜に移るのは、他のアニメが放映されるからではなくて、キャイーンの番組が一時間枠になるからと知り、安堵。

 YAHOOの掲示板で、同人誌サークルさんの痛い行動として、「他のジャンルに興味が移って、元のジャンルで告知した本を作ってくれない」というような書き込みがあり、他人事とは思えず。
 ここで扱っているどのジャンルや企画も好きでやっていることだし、「やります」と言った事には発言した以上、義務も覚えているのだが、・・・せめて、人に「必ず書いて贈ります」と言った話は書け、自分!
 (一番お待たせしている方は何週や何か月どころじゃなかったりする。痛い)

 「ちょびっツ」を読んで、「ぶっとびCPU」を思い出したのは私だけではないことを知る。やった。


 二〇〇一年三月二日(金)

 家人が買ってきたCLAMP「ちょびっツ」を読む。
 ・・・
 ・・・
 ・・・新谷かおる「ぶっとびCPU」を思い出したのは私だけ?

 でも、共通点といえば「パソコンが人間の形をしている」ぐらいだが。
 あ、後、どちらも「読んでます」と告白するには少々勇気が要ることか。


 二〇〇一年二月二十六日(月)

 己の浅ましさを思い知らされるとき、というのは、本当にくだらないことで自分が喜んでいるのに気付くときだ。
 でも、本当は、そんな自分を浅ましい、と思っていることこそが浅ましいのかもしれず、結果、思考は渦を巻いてしまう。

 というようなことを、ベビースターラーメンを食べながら打っている。パソコンの周囲に飲食物を置くのはやめなさい、自分。


 二〇〇一年二月八日(木)

 今月最大の衝撃。
 一月二十九日の日記に、「先日、三百円で売った本が、YAHOOのオークションで三千円以上の値がついていた」と書いた。
 今日、何気なくオークションへいったら、同じ商品が出品されている。
 ついている値段、一万二千五百円。
 「あんたら阿呆か」と、本気で思った。
 (七日の大阪でまだサークルさんが売っていたのに)

 邪神占い、というものをしたら、私は森の黒山羊シュブ=ニグラスだった。
 クトゥルー神話は、「クトゥルー」一巻、三つ目の短編までしか読んでいないため、クトゥルフしか記憶に無く、説明をふむふむと読むしかなかった。
 その、三つ目の短編に突っ込んでいいですか。
 「んなこと書いてる暇があるなら逃げなさいな」
 でも、それをしてしまうと恐怖小説にはならないのか。

・「闇のイージス」 七月鏡一・原作 藤原芳秀・作画 週刊ヤングサンデー 小学館

 今から数年前、週刊少年サンデーで連載されていた「ジーザス」という漫画を覚えていらっしゃる方はいるだろうか。訳あって高校教師に化けることになってしまった殺し屋のお話なのだが、人が殺し合う場面が出てくるにも関わらず、私は全巻を何回も夢中になって読んでしまった。
 その「ジーザス」を手がけていらっしゃった七月・藤原両先生が、ヤングサンデーで連載を始められたのをたまたま発見したときは、心の中で本当に踊ったものである。「コンデ・コマ」は読んでいたけれど、それ以外でヤングサンデーに触ることはあまりない。
 話の内容はというと、現代の日本(「ジーザス」や「ARMS」と同じ世界なのだということをつい先程知った)で、依頼人を様々な暴力から守る「護り屋」、雁 盾人が主人公となり、彼の「護り屋」としての仕事の模様が描かれる。一体、どんな過去を持っているのか分からない雁だが、それでも通りすぎる依頼の数々の中、その正体が少しずつ明らかになっていく。・・・というところか。
 最初はただただ人物の動きや話の展開にひかれるのだけれど、依頼人を殺そうとする人間からは守り抜くが、同時に人を殺さない鉄則を貫く雁に、段々とひかれている。依頼の裏に様々な親子関係のもつれがあり、どうやら雁の過去でも家族が重大な鍵となっているようで、しかしまだ始まったばかりの話なのでそれ以上は分からない。
 いや、それ以上にひかれるのは、護衛の対象となる人達が、守られているだけの弱い人間ではない、ということ。彼らはたまたま暴力から身を守る手段が無くて「護り屋」を頼ってくるのであり、それぞれに気高さと強さとをちゃんと持っている。
 一方で、彼らを狙う犯罪者達も、一筋縄ではいかない人間揃いで、彼らを殺さずにどうやって雁が仕事を遂行させるか、楽しみに読んでいる。
 実は単行本がまだ出ていないので、発売日には是非とも買おうと思う。


 二〇〇一年二月五日(月)

 昨日から一泊二日で、家族(泊りがけでスノーボードに行った一名は除く)で有馬温泉に行ってきた。
 寒かったので、旅館の外からはほとんど出なかったのですが、その分のんびりと出来たのだった。
 風呂は無論良かったし、食事はちゃんと職人さんが料理なさったものだし、カラオケは開き直って歌ったし、床が違ったのにここ連日夜更かしをしていたのが効いたのかぐっすりと眠れたし、こんなに満足した旅行は久し振りであった。
 ちなみに親の前でカラオケを歌うのは始めてだったのだが、父が母へのアドバイスで、
 「節子のように、マイペースで歌えばいいんだ」
 と言うのに、一体、自分がどんな歌い方をしているのか不安になる。
 しかし父よ、後で各人の歌い方に対する評価をするのは辞めてください。
 ちなみに歌ったのはポルノグラフティの「サウダージ」、村下孝蔵「初恋」、FLYING KIDS「僕であるために」、UA「情熱」、サザンオールスターズ「TSUNAMI」。・・・UA以外は男ばかり・・・


 二〇〇一年二月二日(金)

 これを打っているのは翌日だが。
 卒論の試問、終了する。己の不甲斐なさばかりが目についた。
 唯一の救いは、後で先生に「いつか中国に行きましょうね。勉強してから行くと違って見えるから」と言われたことか。
 で、ゼミの面々で飲み会になだれ込む。「水滸伝」と同じ読み方をする店に入る我々。
 「すいません、ソルティドッグください」
 ちょっと飲んでみたらさわやか系の飲み物だったので、食べ物(枝豆や揚げ物等)をいただきつつ、勢いに任せて飲んでいたら、座の中で一番早く飲めてしまった。
 「ちょっとペースが早かったか」とウーロン茶を頼んでのんびりしていたら、横の人が「八崎さん、飲める人?」と聞いてくる。
 「分からない」
 「分からないというのは飲めるということですね」
 こら先生、妙な解説を挟むんじゃない。
 「じゃ、これ飲んでくれない」
 と、あまり飲めない子の頼んだ、カルピスサワーなるものを渡してきた。
 まあ、なんとか飲めそうなのだったので受け取ったが、頭の中がくるくると回りそうな状態になり、食べ物を見ても口に入れられそうではない。
 「ああ、これはやばい」
 と、壁にもたれて上方をじっと見る(今考えたら、すでに見た目がやばいか)。
 どうにか少し回復した後、ウーロン茶と交互に飲み、無事制覇したのはいいが、向かいの人が、
 「そんな、やけくそみたいに飲まんでも」
 と言っていたので、一体、自分がどんな飲み方をしているのか不安になる。さぞかし、まずそうな飲み方だったんだろうなあ。
 さすがにその後、別の飲み物も押し付けられそうになったが、断った。
 が、回復した後、締めに飲んだのは何故か噂の日本酒「美少年」だった。人が飲んでいたのを一口だけ。
 帰りに、自分の口が日本酒臭いのがいやで、ガムを噛んで帰る。

 ふと気付いたのだが、私の父は毎日のように酒を飲んでは、その度に見事に酔っ払っている。長年、その様子を見ていた私にとって、酒は、「絶対に飲まない」か、「飲んでも絶対に酔っ払ってやらない」ものなのだろう。
 でも、飲み始めた酒は絶対に飲み干さないと気が済まないのは、単にけち臭いだけか。

 行きと帰りに「マリア様がみてる」の最新刊「いとしき歳月(前編)」を読破したので(行きはともかく帰りは酒臭い姿で、・・・マリア様ごめんなさい)、感想を少しだけ。例によって隠しました。
 (そういえば、たまに改装したとき、こうやって隠したものの色を変えるのを見事に忘れているときがあるんですよね。発見したときは、本人が気付くまで笑ってやってくださいな)
 でも、ここへ来る人の中で、「マリア様がみてる」を読んでいる人はどれぐらいいるのか?

 さて、私が「マリア様がみてる」の中で一番好きなのは志摩子さん、次が江利子さまなのだが、
 「まあ、志摩子さんは私と同じ渋好みだからな。可愛らしい人だし」
 と思っていた。が、江利子さまの方の理由はわからない。
 「私も珍しいものが好きなのか・・・?」
 そんな疑問を抱えたまま読み始めた今回、見事に疑問は解明されてしまった。
 ま、まさか、求婚相手(!)に、十歳年上の男やもめで、しかもヒゲ面の方を選ぶとは・・・。(つまり、江利子さまと私は、男性の好みが微妙に似ていたのね)
 でも、今回のお話を読んで、納得もしたのである。リリアンで育った江利子さまにとって(幼少期がリリアンでなくとも、お父さまとお兄さま方が女子のみのところへ通わせているに違いない)、同年代より、肉親とはいえよく接する機会のある、年上の人の方が親しみやすかったのだろう。
 ま、江利子さまなら、ウン十年後の再婚相手が半世紀以上、年の離れた年下の方でも、誰も全く驚きますまい。
 それにしても、「ああ、三薔薇さまの一角が崩れてしまった」と、本を手に心の中でだけでも涙した読者はさぞかし多いだろう。
 その一方で、皆、「さすが黄薔薇さまだ」と思っただろうけれど。

 祐巳たちの世代は、どうやら由乃が主導権を握り、祐巳が補佐、志摩子さんはマイペースに手伝う、というところだろうか。つまり、蓉子さま、及び祥子さまの世代とは、紅薔薇と黄薔薇の役割が入れ替わるのか。
 それよりも、「笑い者になるんじゃない、笑いを取るの」と言って、見事安来節を踊りきった祐巳に成長を感じたのは私だけではない筈だ。
 今回は「マリア様がみてる」が、単に乙女の夢を描いただけの話ではないことがはっきりしたと思う。普通なら、江利子さまのお相手は裕福で見た目麗しい美青年だろうし、間違っても祐巳の出し物はどじょうすくいではなかっただろう。夢を描いているように見えて、その反対も描いてみせることによって、真実を垣間見せる。やはり、少女の読む小説はそうじゃないといけない。

 後編が楽しみであり、そして寂しい。多分、紅薔薇さまと白薔薇さまと静さまの話になるのか。
 そして、その次が遂に彼女達の登場か。

 はい、ここまで。
 一緒に「ノルマンディーひみつ倶楽部」の新刊も買っていた。一巻のときよりはあちらこちらで見かけるので少し安心する。


 二〇〇一年一月二十九日(月)

 田中公平先生の二十周年記念コンサートのCD二枚、無事入手。
 一方、THE TRIPLE Xの、注文したCD二枚も無事入手。
 CDを買い過ぎだ、自分。

 最近、YAHOOのオークションに通うようになったのだが(参加した矢先の有料化決定にはへこんだ)、ぐるぐると見ていたら、今世紀最初の衝撃が。
 「私がこの前(というか年末)、古本屋に三百円で売った同人誌に、三千円以上の値がついている!」
 まあ、真面目にバイトすれば半日もかからずに稼げる金額だったので、衝撃は一瞬だけだったが。
 これが三万円だったらしばらくの間落ち込んだだろう。
 三十万円だったら泣いただろう。

 先日、大阪を歩いていたら、エステの勧誘に引っかかった。相手は私と同年代のお姉さんだ。

 「今、暇?」
 暇じゃない。行きたいところがあるんだから。
 「あ、ひょっとして、○○○○○に行くの?」
 何故分かる。
 「ええ、そうですけれど」
 「ああ、私もよく行くのよ、あそこ」
 へえ、考えてみれば、古本屋としての機能もあるわけだから、普通の人でも行く人は行くわな、あそこは。
 「ちょっと、三階は怖くて行けないんだけれどね」
 よっぽど、「その三階に行くんですよ。『ONE PIECE』の本を探しているんですけれど、欲しいものがなかなかなくて。後、○○○○さんと××××さんのファンなんですよね、私。同人誌即売会にもよく行くんですけれど、でも、なかなか本が集められなくって。どこで入手できるか、ご存知ありません?」とか、あることないこと並べ立ててやろうか、と思ったが、やめる。
 「最近は色々なエステの店が出来ていてね、大変なのよ」
 お、やっと本題に入ったか。
 「これ、良かったらどうぞ(と、チケットをくれた)。ねえ、どれに興味がある?」
 よっぽど、「いやあ、この完璧な美貌に手を加える方が犯罪でしょう。それとも、どれか必要なように見えます?」と言おうかと思ったが、止めた。
 無論、本当は、(全部必要だなあ)と思ったのだけれど。
 笑ってごまかしていると、
 「ねえ、今なら、無料で化粧品をプレゼントしているのよ。どう、来ない?」
 ああ、それには全く心を動かされない。というか、これで微かにこの人に寄せていた同情心すら消えうせた。
 「私、化粧品に興味ないんですよ」
 これは本当。というか、まだ正式な化粧デビューはしていない(そろそろしろよ)。
 だいたい、デビューが貰い物ではあまりにも空しいではないか。
 それにしても、物で客を釣ろう、という根性が感心できない。
 「そんなこと言わなくても、寄ってくれればいいのよ。こっちだから」
 「○○○○○に寄ったら、もう帰りますので」
 「あ、こっちにも店があるの」
 「いや、本当にいいですから」
 「あっそう」

 で、消えた。
 そう、本当に消えたのである。
 「声をかけてこなくなったな」と思って振り返ると、もう、勧誘員の姿はどこにも見当たらなかったのであった。
 あまりにも怖くて、○○○○○に行ったら、店の中までやってくるのではないか、と、勧誘員が流石に来られないだろう三階に駆け込み、しばらく怯えていた。幸い、彼女とはもう二度と会わなかった。


 二〇〇一年一月二十五日(木)

 今日は大阪に行くので、今度こそ「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観に行くことにした。ハンカチどころかタオルが必要らしいので、ちょっと楽しみなのである。
 今、一番観たい「クイルズ」は、どうやら五月下旬に公開のようで、これまた楽しみ。

 「クイルズ」はサド公爵を描いた話ということで、どうせだからこの機会に、と、思いきって著作に触れてみたが、その、あまりにも徹底した世界観に、短編をいくつか読んだだけで投げ出してしまった。  同性愛者の女性に芝居を打って、まんまと結婚してしまう男性の話があったのだけれど、「別に独り身でも、本人が楽しいんだからいいじゃないか」と、腹を立てる。

 「ER」、グリーン先生も去ってしまうのか。悲しい。ベントン先生とカーター君はどうなるかは不明のようだが、ジョン・カーターが去るときが来たら、「ER」はその回を最終回にすべきだと思っている。だって、どう見てもこの話は彼の成長物語じゃないか。


 二〇〇一年一月二十三日(火)

 CD「COWBOY BEBOP BLUE」入手。あまりにも嬉しいので書いておこう。
 が、購入直後、ジャケットを見て仰天する。最大の目的だった、EDの最終回バージョンが、どう見ても載っていない。
 ・・・と思ったら、いざ聴いてみると、歌詞を載せていなかっただけで、ちゃんと存在していた事が判明する。一安心。
 勿論、それ以外にも素晴らしい楽曲ばかりだった。至福の一枚。
 「ダンサー・イン・ザ・ダーク」は結局観られませんでした。(何の事だ、と思われた方は、更新記録参照のこと)


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