過去の研究日誌5

過去の研究日誌 五冊目


 二〇〇二年三月二十二日(金)

 ゲーテ・作、山崎章甫・訳「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」(岩波書 店、全三冊)を読み終える。名高いゲーテの作品を、私は少女ミニヨンがどうな るかだけを追って延々と読んでいたが、・・・何であんな事になるんだろう。

 中巻までは楽しく読んでいたが、下巻でヴィルヘルムとともに作品自体への評 価も酷く落ちてしまった。強引なまでに、というのも複線が全くなかった展開が 次から次へ起こる上、これまでに生じた謎はお粗末な結末がつけられる。
 というより、下巻の展開は、これまで一生懸命演劇に打ち込んできたヴィルヘ ルムを、最低な男、そして人間として陥れるためのものでしかないような気がし てきた。ヴィルヘルムはあれほどまでに情熱を注いできた演劇を捨ててしまう。 女たちを見捨て、裏切り、固い約束をあっさりと忘れ、殺しておきながらあっさ りと原因となった別の女とは別れ、挙げ句の果てにずっと憧れてきたと称してい る女と結ばれる。中巻までの君はどこに。
 後、上巻の巻末に、これから先の展開を明らかにしているような解説をつける のもどうだろうか。

 冷静になって読み返したら、すべてはヴィルヘルム君の人間成長のための肥や しだったのだよ、と理解できるかもしれないが、・・・が、・・・


 二〇〇二年三月十九日(火)

 先週の日曜のことになってしまうが、テレビで放送されたので、もう一度「エ ントラップメント」を観た。
 一度劇場で観ていたのだけれど、その時は次々と起こる事件と明らかになる真 実とに頭が混乱してしまった。今回は大まかな筋と真相が分かっているので、落 ち着いて話を楽しめた。今頃、映画としては楽しめる要素が山盛りで、とてもよ くできているのに気付いた。遅い。
 しかし、この映画を観た後で、別の部屋にいた兄に「キャサリン・ゼタ・ジョ ーンズが良かったよ」と言ったら、「誰」と言われた。
 「・・・L○XのCMに出ていた人なんだけれど」「今のペネロペ・クールズ の印象が強すぎるからな。覚えていない」
 悪いのは兄の記憶力か、ペネロペ編をずっと放送しているL○Xか。(でもキ ャサリン編もずいぶん長く放送していたんだが)

 で、先週の水曜日、「山の郵便配達」を母と観に行った。そしてついにこの日 、雨が降らなかった。翌日は降ったのだが。惜しい。
 こちらはしみじみと心に染み入るいい話で(三日間かけて山道を巡る郵便配達 の仕事を引退した父親と、その後を継ぐことにした息子が、息子の仕事始めの三 日間を成り行きから共に歩くことになり、ささやかながら様々な出来事を通じて 、これまでの互いや母への思いが淡々と語られながら旅を終え、母の待つ家へ帰 るという話)、しかし時代設定が一九八〇年代初頭とは思えないぐらいの風景が 続く。当然、山道が舗装されているわけがない。

 次郎坊という犬がいい味を出しているので、犬好きの人は是非見よう。


 二〇〇二年三月八日(金)

 ・・・近況を書く余裕すらなかったのか?

・おいしいインド料理店を発見する(のっけから食べ物の話ですか)
・セシル・スコット・フォレスター「海の男/ホーンブロワー」シリーズ(早川 書房)が気に入った。海戦小説は未知の世界だったが、一人の少年の成長を丁寧 に描いているところに好感を持った。
 まだ一巻しか読んでいないから、油断は禁物だが、多分大丈夫と安心出来るよ うな下地を感じる。よく考えたらこの小説と同じ頃、日本はお江戸でチャンバラ しているのかと思うと妙な気分だ。
・雨宮雨彦「王女ルウ」(鳥影社)も気に入った。ごくごく普通の男の子が、国 の内外で恐れられているようなお姫さまと出会い、恋人になり、・・・という話 。よくよく考えたら陰謀あり、戦争ありと盛り沢山の話なのに、本人達が基本的 に冷静な人達な上、直接的に死を描くことが無い為、結構呑気に最後まで読めた 。そして最後まで読むのがとても惜しかった。
・今年最初の映画は「プリティ・プリンセス」だった。・・・いや、女王がメリ ー・ポピンズで、主人公をガードすることになった殿方とのロマンスあります、 という紹介を読んだ時点で観覧決定になってしまったのだ。感想は、普通。日本 人の描かれ方については、沈黙。


 二〇〇二年二月十七日(日)

 金曜日、朝から少々体がだるい。
 「あー、水曜からずっと咳ばかりしているからなあ」
 と額に手をあててみる。別に熱はないようだ。
 しかし、あんまりにも体がだるいので、
 「熱はないんだけれど、体がだるい」
 「ただの寝過ぎじゃないの」
 などというやり取りをすべく体温計を使用する。
 38度4分。
 ・・・ひょっとしてここ数日、高熱の人だったのか?

 で、病院へ行って、風邪と診断され、点滴を打ってもらう。
 帰ってから無理矢理昼食を食べて、寝たらあっさり熱が引いた。めでたい。

 めでたいのはいいが、人にうつしてしまっただろうし、素人判断する前に、熱 ぐらいはちゃんと体温計で計ろうと反省する。

 ちなみに今日は試験だった。
 昨日まで寝ていたが大丈夫だったのだろうか。


 二〇〇二年二月十一日(月)

 二日目(承前)

 我々は果たして無事目的地に着くのだろうか。
 大人数を想定してあるのだろう、冷房が効きすぎた車内でタオルを膝にかけて じっと耐える。
 しかし行きは薄闇の中にあったので、まともに見られなかった景色を眺める。 流れが急なのだろうか、海岸は岩肌が迫っている。海から遠ざかると、小山の連 なりが遠ざかったり近寄ったりして興味深い。
 数時間かけて岩国で降り、バスで錦帯橋へ向かう。岩国にも興味深い名所は数 多くあったが、今回は時間もなく、観光は辞退せざるを得ない。今まで数ある旅 行記で、どうして旅人は目的地へ、もしくは故郷へ向かって、少しは先を急がな いのか、と思っていたものだが、やっと疑問が氷解した。移動ばかりに時間を取 られると、移動は移動で楽しいのだけれど、少々つまらなさを感じるのだ。
 「次はゆっくり来よう」と思いつつ錦帯橋に到着する。渡り甲斐のありそうな までに幅の広い川に、重厚なまでにしっかりと架けられた橋がある。
 でも渡るのには少々抵抗があった。というのも、錦帯橋は横から見ると美しい アーチが連なっているが、渡る者はその曲線を崩さない程度に作られた階段を、 地道に上り下りしなければならないのである。
 自慢ではないが、私はつまづいたり滑ったり転んだりすることにかけては人を 抜きん出ている(本当に自慢にならない)。橋は多くの人々が渡ったことを証明 するかのように滑らかで、しかも現在、私は肩には鞄を担いでいるため、通常以 上に平衡感覚が無い。
 「じゃあ、そこの端に立って、写真撮るから」
 悲痛な覚悟で上り下りを始めた娘の心境を知ることもなく、母は情け容赦ない 要求をする。しかし旅の後のささやかな慰みとして、写真は不可欠な存在である 。この使命は必然なのだ。たとえこの場で地震が起きて、うっかり欄干の向こう へ投げ出され、全身骨折で十時間以上苦しんだ末にあえない命となろうとも、子 はここで親の言いつけに従うことでその恩に報いなければならない。もう少し実 のあることで報いたほうが良いような気もするが。
 欄干の向こうに見える川は、幅広い割に、落ちてもクッションの役割を果たし てくれそうなほど深くもなさそうだ。それでも私は鞄を傍らに置き、欄干に手を かけて、じっとその時を待った。
 待った。
 更に待った。
 いつまでも待った。
 「・・・母さん、撮らないの?」
 「ちょっと待ってよ、うまく押せないから」
 「そこ、シャッターじゃないよ」
 まあ、一枚撮る為に相手の位置を変えてもらい、自分の位置も変え、フラッシ ュ機能の作動方法が分からなくなり、果てにどこがシャッターなのか分からなく なる、ぐらいの騒ぎは私もしたことをここに告白する。
 当然のことながら、錦帯橋製作に携わった方々は、うっかり者が渡っても転ぶ ことが無いよう配慮なさっていたらしく、曲線状の階段を降りることからくる浮 遊感に二、三度とらわれた以外、さして危機もなく無事渡ることが出来た。
 今度は川岸から橋の風景を撮った後、ただ行って帰るのでは面白くないし、と いうことで、
 「白蛇を見に行こう」  となった。

 私はいつになったらいつになったら去年の旅行記を終えられるのかね。


 二〇〇二年二月二日(土)

 以下の文は先日発売になった、月刊少年エースに掲載された漫画版エヴァを読 んだ直後に書いたものであるが、思うままを書いた為に、感情的かつ脈絡のない 文章になっていることをお断りさせていただく。

 *

 私がそれを特別に思っていたのは、有りそうでまず無いからであって、もし有 るのならば、例え有るというその内容が世間では何というほどどころか一笑で終 わる指先の触れ合いであったとしても、私にとってはそれだけで二人の関係は作 品の内外を問わず、他の人間関係すべてと一線を画していたところから、一気に ありふれた、唾棄すべきものへと変貌するのである。
 なぜならば、二人が触れ合ったのは最後の最後のみであり(あれ、弐拾壱話で 肩に手をかけていたっけ?)、その瞬間に二人は物語を構成する存在から、物語 を構成したものの一つだった、ある計画(それが各々にとって内容の違ったもの であったにせよ)を進めるための二つの肉体にしか過ぎなくなってしまう、とい う象徴的な場面であるために、そこから逆に転じて、そこに至るまでの二人の関 係はまず触れ合っていない、ということが前提でなければならない。

 ・・・というか(緊張感切れました)、レイって人間っぽく描かれていません ?
 さらにはシンジに、普通の少女のような心境で惚れてるっぽくありません?
 の一方でカヲルは人間じゃないっぽい描かれ方をされていません?
 これでカヲルは完全な敵として、嫌悪感をもってあっさりシンジに倒され、ゲ ンドウが父親らしいことを言って死んで、シンジはレイと普通にくっついてアス カの存在無視、とかなったらどうしてくれようか。

 衝撃だったのは(緊張感降臨)、そのような疑問符だらけの物語が制作者、そ れも中心というべき存在の手によって作り出されているのであり、つまりはこち らの上記のような考察、感情は根本から間違っているということであり、所詮は 数年かけていても偽物の見解は偽物の見解であるということである。
 中心の人間が作り出しているということは、もっとも作品に対して責任がある と同時に正しい見解を作り出すという義務が生じているために、無責任といえる こちらの見解は彼らに踏みつぶされて当然である。つまり私が三文小説と変わり ないではないかと思うような見解を先方から突きつけられて、それにどんな感情 を抱いたとしても正しいのはその見解であり、それがあの作品でありあの二人で なければならないのだ。間違っているのは私である。二人はそこらにいる存在と 何ら変わりないのである。
 何と長い誤解の期間だったことか。私は今まで二人の関係について異なる意見 を述べられた方に対して、困惑と反意を抱いたものだが、実は嫌悪すら抱かれて しかるべきだったのは私で、あっているのは彼らだったのだ。私の思う二人など どこにも存在していなかったのだ。
 この先何を書いても、この作品については嘘ということになる(少なくともこ の作品については)。パロディを書くには、作品を正しく把握する必要がある。 核が歪めば当然外殻も歪む。歪んだということはつまり嘘だ。私はパロディでは なく嘘を書いたことになる。作り事で嘘を書いてどうする。

 *

 というのが、ゲンドウがレイの頬に触れようとして、レイに手を払われた場面 (二コマ)があったのに対する文章であった。
 取り敢えず笑っておく。ははははは。

 で、近況。

1 去年の末に隆慶一郎「一夢庵風流記」を読んでいたので、大河ドラマの良妻 賢母なまつに不満を抱いている。・・・が、よく考えたら「一夢庵風流記」のま つは不倫したんだよなあ。しかも利家が情けないんだよなあ。
2 で、「恋するトップレディ」も見ているが、女性の背後に男性が位置する、 という構図は今ひとつ私にはときめかないことを発見する。だって、常時その位 置にいられると、背後が気になるじゃないか(ゴルゴ13?)。
3 高行健・作、飯塚容・訳「ある男の聖書」を読む。それでふと、中国関係の 本を本屋で探したら、一年半前の自分に渡しておきたい本がごろごろとあって泣 く。ところでこの高行健氏、「逃亡」をレポートで取り上げたこともあって名前 を覚えていたのだけれど、この本の帯でノーベル賞受賞者と知ってのけぞった。


 二〇〇二年一月二十五日(金)

 「活字倶楽部」を読んでいたら、「センセイの鞄」とメアリ・ラッセルシリー ズの投稿絵で恐ろしく悶える。
 いいなあ、絵が描ける人は、己の想像した画像を目でみられるものにできるの だから。
 私の画才なんて、小柄な少年を描こうとして三メートル以上ありそうな巨人が 出来上がってしまう。

 気に入った途端に小路啓之「イハーブの生活」(月刊アフタヌーン、講談社) も終わってしまった。
 「イハーブの冒険」「イハーブの苦難」「イハーブの逃走」「イハーブの結婚 」とか続編出ないものか。


 二〇〇二年一月十四日(月)

 近況。
 まずT・E・カーハート・著、村松潔・訳「パリ左岸のピアノ工房」(新潮社 )の影響で、土曜日、久しぶりにピアノを弾いてみた。
 ・・・下手の極みだった。
 ちなみに我が家のピアノは今の電子ピアノに揃って笑われそうなぐらいに鍵盤 が堅い。
 次に、弁当を包む布がないので自作を思いつき、布を買ってきて縫う。ミシン がないので、手縫いで。
 数時間かけて、やっと半分終了。縫い目の線はあらかじめ引いておけばいいも のを忘れていた為、すでに雑な仕上がりである。

 で、他に買うものがあるだろうに、「ONE PIECE BEST SON G COLLECTION」を買ってしまった。
 気づいたのは、今のオープニングが収録されていないこと、三代目エンディン グを歌っている人が違うこと(違和感は全くないが)である。
 キャラクターソングもあったが、ルフィとウソップの歌はそれぞれキャラクタ ーソングとして聴けた。ナミの歌は彼女の歌でなくてもいいような気がする。ゾ ロの歌とサンジの歌は、今はまともに聞ける。いや、私が悪いのだ、きっと。特 にサンジの歌、最初は三十秒ぐらいでお腹痛くなった。
 どちらにしろ、「片翼の鷹」が一番気に入った。シャンクスのイメージソング なんだが格好良い。

 しかし、なぜアニメではエースお兄さんがついてきているのだろう。
 そして、なぜか「ご苦労」と副社長の労をねぎらっている社長。「・・・フン 」も「お優しいことで」も良かったな。ひょっとして私、二人が絡んでいたらそ れでいいのか。


 二〇〇一年十二月二十九日(土)

 で、前述の「とびだせ海賊団」だが、クリアした。今思うと、スモーカー大佐 のところで苦労したのは、却って運が良かったかもしれない。
 忙しい年の瀬に何をしているのだか。
 下はネタバレのため隠しておく。

 ほんのりルマキで、そこはかとなくシャンマキで、ほのぼのとゾロリカで、仰 け反るぐらいにウソカヤで(クロカヤ派の立場は・・・)、何故かプリンプリン ナミで(プリナミ?)、熱くでもやはり一方的にサンナミで、こっそりアーナミ 、だった。
 ・・・って、これの何処がネタバレ。


 二〇〇一年十二月二十七日(木)

 PS「ONE PIECE とびだせ海賊団!」(BANDAI)で、
 スモーカー大佐との海戦に勝った。
 勝った本人が一番信じられない。反射神経に自信ないことこの上ない人間なの に、・・・ああ。
 (海戦がどれだけ大変かというと、敵の船と砲弾を打ち合うのだが、船は移動 不可能なので相手の砲弾はかわせず、こちらから打った砲弾を当てて相殺する以 外に着弾を防ぐ手段が無い、しかもこちらは一度に一つしか打てないのに向こう は一度に五つ以上打ってくる、という凶悪そのものの対戦方法)


 二〇〇一年十二月二十六日(水)

 ところで、とある漫画の最終回のみをいきなり読んだのだが、読んでいてくる ような男女関係ばかりだった。
 「でも、何だか典型的だなあ」と思い、取り敢えず整理してみると、

 「男が女を導き、女が男を支える」
 「女が突き進むのを男が守り通す」
 「男と女が死力の限りを尽くして争い合う」
 「女を救って死んだ男が。その後の女の基盤となる」
 「男が女の側にいながら生涯命をつけ狙う」

 こんなところだった。女が主人公である冒険物や伝奇物の、基本的な男女関係 が全部あるのではないだろうか。
 ちなみに上の五つ、男は全員違うが女は全部同一人物だ。


 二〇〇一年十二月二十五日(火)

 なんで、キリコも澄緒も塔子もマリーも弥恵もるくるくもローズもないんだ( 意味なく五十音順)。
 もっとも、我が家のパソコンラックはマウスパッドが置けるような幅を持っち ゃいない。
 それにムッシュもヤハベもいないんだもんなあ、応募しても意味ない。
 文秀も春香も蝙蝠君もいないし(それは他誌)。


 二〇〇一年十二月十二日(水)

 はずれのほとんどないパン屋さんを発見する。
 ちなみにここでいう「はずれでない」とは、油っぽくなく甘すぎず塩味がきき すぎず歯ごたえもよく軽いものは軽く重いものは重くしかし重すぎずパン生地は おいしく具は主張しすぎず後味は良い、ということをいう。
 と書くと、何だかこれまでの私の人生、パン屋巡りに命をかけてきたようだな 。


 二〇〇一年十二月八日(土)

 昨日、学校でD.H.ロレンス・作、伊藤整・訳、伊藤礼・補訳「チャタレイ 夫人の恋人」(新潮社)を読んでいたら、横合いから、
 「何を読んでるの?」
 ある人が話しかけてきたので本を見せた。すると、
 「あ、18禁だ」
 と言った。
 「・・・そうですか?」
 「うん、18禁だよ、18禁」
 教室中に聞こえるぐらいの大声で嬉しそうに言ってくれた。

 まあ、カバーもかけないで電車の中でも教室でも読んでいたのだし、仕方ない か。
 しかし、一番衝撃だったのは、件の人物が若い時分に読破していたことだった 。

 それにしても平野耕太「ヘルシング」(少年画報社)作者のプロフィール四巻 編で、「好きな海賊 クロネコ海賊団」とあるが、これってやっぱりクラさんこ とクラハドールのクロネコ海賊団だろうか。
 もしそうだとしたら、いかにも、だな。

 (クロネコ海賊団を知らない方へ・・・部下に「おれの計画のために従って死 ねばいい」とのたまう人が船長の海賊団)
 (ヘルシングを知らない方へ・・・敵に「豚の様な悲鳴をあげろ」とのたまう 吸血鬼が主人公の漫画)


 二〇〇一年十二月一日(土)

 兄が「真三国無双2」(光栄)(後日追記・「コーエー」でしたね)を買って いた。


 二〇〇一年十一月二十四日(土)

 「今年の日曜は人が多いでしょう」
 「そうですね、先生」
 「何でも、○○○○という人のトークショーがあるらしいですよ」
 「名前は聞いたことがありますけど。どんな人なんでしょう」
 「さあ、タレントだとは思いますが」

 という会話を、先週日曜、本気で交わしていた。

 ワンピース好きが高じて、こんなものを作ってし まった。
 んなもの作っている暇があるなら、もう少し何か他のことをすべきなのは分か っているんですが。
 しかし、返答例ぐらい作らねば。


 二〇〇一年十一月十八日(日)

 冷静に考えたら、「十二、三才の少女に翻弄される男」って、数日前の己の発 言に基づいていらっしゃったんじゃないのか!?
 己の発言ぐらい覚えておこう、自分。

 野中英次「魁!!クロマティ高校3 プロ野球編」(少年マガジンコミックス 、講談社)を購入した。
 マスクド竹之内に惚れたのは私だけではない筈だ。
 ところで元祖竹之内さんはこの先どこへ行ってしまうのだろう・・・。
 後、野中先生は絶対ネット長期経験者だ。

 で、久世光彦の本ばかり読んでいる。
 最初に取ったのが「卑弥呼」(新潮文庫、新潮社)で、書評を見るとほとんど 全ての人がやたらと本の話が出てくるところと、カオルの博識のおばあちゃんを 取り上げていらっしゃる。私は敢えてもう一つの牽引力となっている(少なくと も私にとっては)未知子さんや可門さんが良いと言いたい。
 二人とも、読み手の私を知らないところへ引きずり込もうとしていたのだ。未 知子さんは有り得ない少年の日へ、可門さんは得体の知れない、けれど可門さん は知っているに違いない闇の中へ。
 あっけらかんとした明るい世界の中で、それらが話を立体的にしていた。だか らこそ、読後感は爽やかだった。
 さて、完全にその世界に引きずり込まれたのが「ひと恋しくて 余白の多い住 所録」(中公文庫、中央公論社)だ。題名が示す通り、様々な人に対する思い出 を綴った人名録だが、江戸川乱歩、堀口大学から、工藤静香やさくらももこまで 多彩である。
 しかも、「この人はこういう仕事をしていて、・・・」などと必ずしも語って いるわけで無いのが凄い。特に読者に馴染み深いと思われる人については職業と は全く関係のない事について語っている場合が多い。
 白眉ものは加藤治子の下りで、これだけ読んでも、読者である私は彼女がどの ような職業の人で、作者がどのように彼女を知ったのか、さっぱり分からない。 却って、他の方の項の中でたまたま名前が出てくるのを拾った方が分かるぐらい なのである。
 けれど、作者にとって加藤治子という人がどのような印象の人であるか、どの ような雰囲気を放っていたかは、彼女の項を読むことで初めて掴める。まるで吐 息を、視線がすぐそこにあるかのような錯覚に陥る。
 そして最後まで読んで、やっと私はこの人名録の主役が「住所録」に載ってい る人々ではなく、この住所録を作成していた作者自身なのだと分かった。
 でもやっぱり、どんな人か掴めなくて、他の本も読んでいる。

 母校の学園祭だったので行ってみた。
 紅葉のいい時期に開いていたんだな、と今更気付く。

 「また」某漫画の口直しにと「エリザベス」を見ていたら、泣くエリザベスにウォルシンガムが手を伸ばしかけたのに、エ リザベスがしっかり反応していて、具体的には手を握り締めることで拒絶してい たのを発見(今頃かい)。
 やっぱりウォルシンガムはエリザベスに特別な思いを抱いていたというのは私 の勘違いじゃなかったのね(いや、実際にはプロテスタントだった彼が、エリザ ベスを持ち上げる以外に生き延びる道が無かったのは分かっていますよ)。そう いえば最後の字幕で日本語版だと「ウォルシンガムは最期まで忠を尽くした。エ リザベスは生涯独身を通したが、最期にロバート卿の名を叫んだとか」というよ うなものになっているけれど、元々の英語版をよく見ると「最期に『彼の』名を 叫んだ」となっているので、ひょっとしたらひょっとするかも、と勝手に妄想し ている。文脈としてもそっちの方が合っているし。もっとも、「彼」なので、裏 をかいてエセックスかもしれない。更に裏をかいてバーリー卿だったりして(な んでだ)。

 脈絡の無いことばかり書いていてなんだかな。


 二〇〇一年十一月十七日(土)

 北向きのだだっ広い玄関に帰ってきた少女の所へ駆け寄る男、膝をついて少女 の靴(黒の皮靴)に手をかける。
 少女は不機嫌そうに足を浮かせて脱がせた後、勢い良く男の腹を蹴り、詫びも せず、軽快に家の中へと入って行く。
 男は怒るでもなく、靴の汚れを払うと、両の手の平で包み込むようにして靴を 持ち、靴箱に入れる。

 というのが私の中の少女に翻弄されている男の図。
 はっきり言って、すさまじくツボだ。
 (私宛の私信じゃなかったらどうしよう)

 中山可穂「深爪」(朝日新聞社)を読んで、不倫する女の、あまりにもの自己 中心ぶりに唖然とする。
 不倫相手と寝る為に自室に鍵をかけて子供を締め出しておきながら、同性愛者 である不倫相手に(念の為、この女はバイで、不倫相手も女性)「これだから子 供を産んだことのない人は困る」と思うような人のために世界が回っている話で ある。
 その妻が出ていった(しかも出ていった先は上記の相手とは違う女性)後、残 された夫が元々子煩悩だったこともあって甲斐甲斐しく子供の世話を焼くんだけ れども、それでも母を求めて泣く子の為に女装する下りなんてしみじみと悲しい 。
 しかも別れた後も、上記の恋人も夫も、この女のことを愛していたりするので ある。まあ、こういう女を捕まえた人々も悪いといえばそれまでだが、すべてが あまりにも彼女に都合が良すぎる。
 この作者の「感情教育」は同様に子持ちの既婚女性が女性と不倫した末に離婚 する話なのだが、そちらはそれなりの試練や波乱があり、「そりゃこの人、家庭 から逃げたくなっても仕方ないよ」と思わせる所があった。最後の下りなどくる ものがあったから、この話にも期待していたのに、残念だ。
 自覚のない利己主義ほど性質の悪いものはない。それを平然と贔屓する物語も 。


 二〇〇一年十一月十日(土)

 どうしてだろう。
 石川さんの顔がさっぱり覚えられない。せめて下の名前ぐらいちゃんと覚えよ う、自分。
 新しく入った人たちも、髪形が変わったりしたら覚えられなくなるだろう。い や、これまでの人員だって分からなくなる可能性は十分にある。

 二日目(承前)

 さて、大変な思いをしてまで山口に来たのは、美術館でこの時開催されていた モネの美術展の為である。いつぞやに神戸で開催された別の美術展でその絵と名 前はしっかりと心に残っていたので、母の誘いを断れなかったのである。
 近所にあったら毎日散歩に通いたくなるような外観をもった建物が美術館であ った。早速入って鑑賞することとなる。
 内容に関しては、下手に言葉を費やしても絵の良さを却って損ねてしまいそう なので、大変満足したとだけ書いておく。
 美術展の冊子やポストカードを購入し、モネ・ソーダなるもの(単に鮮やかな 青の色付けガしてあるというだけだった。でもおいしかった)も飲んだ後、入っ てきた時より遥かに多い入場者の数に「朝早く来て良かった」と思いつつ脱出。
 フランシスコ・ザビエルの記念堂を経由して山口駅に戻ったが、そんな我々を 待っているのは、
 「次の電車ですか。一時間後ですね」
 電車待ちだった。
 仕方がないので、駅前のビルの食堂で昼食となる。母がざるそば、私がざるう どんを頼んだが、食べ比べると明らかにざるうどんの方がましな麺をしている。
 そして、二つともつゆは同じだった。
 ともあれ、昼食を終え、駅へ向かうと、もっと時間をかけて探索したかった気 もする山口を後にして、次の目的地に向かう我々であった。

 ここ一週間読んだ本の感想。

・ジェフリー・アーチャー・作、永井淳・訳「チェルシー・テラスへの道」(新 潮文庫、新潮社)上・下
 ロンドンはホワイトチャペルの野菜売りの祖父に育てられたチャーリーが、祖 父の仕事を継ぐところから始まって、やがて長い年月をかけて商店街チェルシー ・テラスの全店を手にいれるお話。
 のしあがり系、及び人と人との駆け引きを描いた話が好きでたまらない私には 、大変楽しめた。
 登場人物がかなり多い話だが、読み進むにつれ各人の才覚の個性が伝わってく るのが心地よい。特にトランザム親子が妄執にとらわれるばかりにチャーリー達 と敵対する様は、彼らの立場になったらひょっとした私もこうなるかもしれない 、との思いにかられる。
 後、ベッキーやエセル・トランザムをはじめとする女性人が精神的に滅法強い 人達ばかりで、イギリスの女性って皆こうなのか?と思ってしまう。
 上下巻合わせると九百ページもの分量を、清々しいラストまで一気に読ませて くれる。

・乃南アサ「6月19日の花嫁」(新潮文庫、新潮社)
 気がついたら見知らぬ男の部屋で眠っていた主人公は、自分が記憶を失ってい る事に気付く。道で倒れている彼女を拾ったという男の世話になりながら、やが て自分が池野千尋という名であることと、一週間後の6月19日に結婚しなけれ ばならないことを思い出すが、・・・
 記憶喪失を扱った話は数あれど、「そうか、実は私はスパイだったのだ!」な どと、非現実な事実が明るみになって二転三転、となり、記憶喪失への不安は消 失するものが多い。この話のように、記憶喪失を主人公の人生を読者に違和感な く納得させる為の装置として使われた例は、案外珍しいのではないかと思う。
 一つ過去が明るみになる度に変貌する彼女の正体を見て、本人も周囲も「記憶 が全て思い出せた」と納得した段階に入っても、何か読み手であるこちらにはま だ何かあるのではないか、という、主人公の過去への不安が残る。
 最後、彼女はどうなったんだろうか。やはり、・・・

・エレナ・ポーター・作、村岡花子・訳「少女パレアナ」(角川文庫、角川書店 )
 かの世界名作劇場では「愛少女ポリアンナ物語(ストーリー)」という名で放 送された話である。
 たった一人の家族だった父を喪い、叔母パレーの家に預けられることになった パレアナは、叔母の厳格さに戸惑いながらも、父から教わった「何でも喜ぶ」ゲ ームをすることですべてをしのぎ、叔母に、そして町全体に明るさを与えていく 。
 既読の方には、この話の核となっているのが「何でも喜ぶ」ゲームであること はご承知のことと思う。まだ話をちゃんと読んでいなかった頃の私も「何でも喜 ぶゲーム」の存在は知っており、何なのそれは、と思っていた。
 そして、通して読んでみて、やっとその真の姿が分かった。叔母の所へ来る前 のパレアナの環境は、かなり不遇なものだったのである。いわゆる少女小説で彼 女以上に不遇だった主人公といえば、孤児院にいた「あしながおじさん」のジュ ーディしかいないように思う(いたらどうしよう)。彼女の父は、そんな自分た ちの境遇を、娘に卑屈にならず、且つ逃避させずに向き合えるようにとゲームを 考え出したのだ。
 つまり、一見呑気なゲームの裏には、かなり戦闘的なものが隠されていたので ある。愛少女なんてタイトルをつけている場合じゃなかったのだ。

・エクトル・マロ・作、津田穣・訳「家なき娘(アン ファミーユ)」(岩波文 庫、岩波書店)上・下
 世界名作劇場では「ペリーヌ物語」として知られた話の、現在日本では唯一と 思われる完訳版である。
 父の産まれ故郷へインドから長い旅を歩いたペリーヌは、旅の最中に父を、次 いで母を亡くし、祖父が工場主として暮らしているという、フランスのマロクー ルにたった一人で辿り着く。両親の結婚に怒っていたという祖父の元へ名乗り出 ることも出来ず、名を偽って工場で働くこととなった彼女は、やがて持ち前の明 るさと機転で着実に祖父の元へと近づいていくが、祖父はまだ両親の結婚を許し てはいなかった。・・・
 これは長いこと絶版になっていたのを岩波書店さんが今年の夏に復刻なさった のだが、この本が欲しくて古本屋を歩き回っていた私は、復刻されたのを先日、 偶然図書館で発見するまで知らなかったのだった。情けない。
 ちなみに本を手にとって戴ければ分かるが、全編これ旧字体である。台詞一つ 取っても、「どうしたのだ」でも「どうしたのじゃ」でもなくて、「どうしたの ぢゃ」と表記されているのだ!まあ、慣れれば「ぢゃあまたね」と少女達が挨拶 している図というのも味となる。
 後、再放送で「ペリーヌ物語」を見ていた(特にマロクールに着いてからの後 半)私は、ペリーヌのお兄さん的存在だった技師ファブリさんが、実はアニメで 他の人のおいしい場面をさらっていたという事と、原作でペリーヌの「手中の道 具でしかなくなってしまった」(「」内は下巻261ページより抜粋)と書かれ てしまっているのに衝撃を受けてしまった。
 大の大人が十二、三の少女の道具になるんじゃありません。

・エリス・ピーターズ・作、岡達子・訳「門前通りのカラス 修道士カドフェル ・シリーズ12」
 時は十二世紀半ばのイギリス、もと十字軍兵士で今は修道士で菜園と薬草を任 されているカドフェルが、様々な事件を解き明かしている内にいつの間にか男女 の仲を取り持っていたりする話の十二弾。
 そういえばこの話もイギリスで、かつ女性陣は骨のある人達ばかりだ。
 このシリーズは二十弾と番外で作者が亡くなられた為終わっているが、ひょっ として本当の最後はこうだったんじゃないのか、と思わせる人が登場している。 赤子だけれど。
 最後は、彼女が成長して美少女に育つが、ある事件をきっかけに巡り会った男 への思慕と、自分も母のように男に翻弄される運命を辿るのではというためらい と、同じ名を持つ聖女のように求婚を避けて神に己の人生を捧げるべきではとい う思いとの間で揺れ動きつつ、カドフェルに仲を取り持ってもらう話だったので はないだろうか。
 まあ、多分違うだろうし、十二冊の中の時間は五年と経っていないので、例え エリス・ピーターズが百冊書かれたとしても、彼女が実際に成長するところまで 辿り着けたかは少々怪しい。
 しかし、そうなると彼女の相手はジャイルズか。でもカドフェルの・・・の方 が締めくくりにはふさわしいな、と、想像は勝手に膨らむのである。


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