水。
水の中にいた。
他のものなど何もない。
ただ、水。
目に見えるのは、はてしなく広がる水。
聞こえるのは水のかすかなざわめき。
感じるのは水のぬくもり。
水を通して、皆の声がとどく。
皆の笑いが。
笑い。
・・・笑っている?
笑うとは、何。
腕をつかまれる。はじめての経験。
(苦しい)
はじめて、そう思った。
胸が苦しくて、口から何かが入り、漏れる。
耳が、もう水のざわめきを聞いていない。
肌が、もう水のぬくもりを感じない。
皆の声が、笑いがとどかない。
そして、目に見えるのは、・・・
ゲンドウは、床にへたり込んでいるものを、バスタオルでくるみ、髪や体に、まるでこびりつくように絡まっている液体を、根気よく拭いてやった。目の前のものは痛そうに顔を歪め、紅い口から甲高い叫びをあげる。呼吸に慣れるまで少々手間取ったようで、しばらくするとおさまっていったが、口はだらしなく開け放しており、低い声が漏れ続ける。瞼は開いておらず、その下にあるはずの瞳はまだ見えない。
(獣だな)
生まれたばかりのシンジと初めて対面した時の、驚愕と落胆と畏怖とを、改めて彼は感じていた。目の前のものは、神の崇高な手と太古からの生命の営みから引き剥がされ、人の汚れた手と鉄で作られた機械の意志なき作業によって造られた、しかも純粋なヒトという種でさえないにも関わらず。そこには、生命の力があった。ありのままの、粗野で、純粋な生命の叫び。
(今度は、大気に対する拒否反応をおこさないらしい)
ヒトの卵子のコピーを大量に造り、人間以外の遺伝子を注入したキメラ。それも、人類救済を建前にした、彼自身のエゴのために造られたもの。
初めて無数の卵と対面した時、それは彼にとってユイの部品であったもので、今はユイに似た、別の存在になっていく物体である、という認識しかなかった。生命の誕生に対する、感動は全く覚えなかった。自分が、それを冒涜した行為を犯していることを忘れるほど、愚かではなかった。
だから、今、目の前のものに抱いているのは、奇妙な感覚、としか言いようがなかった。
「レイ」
瞼がゆっくりと開いていき、まぶしそうに、彼の方を見上げた。もう一度、はっきりと話しかけると、
「・・・ぇい」
小さな声が、その口から漏れた。自然と、その濡れた頭部に手を乗せていた。
「そう。レイ。それがお前の名だ。私は碇。碇ゲンドウ」
「うぁい、えぅおう」
ゆっくりと、はっきりとせぬままに彼の言葉を繰り返す。いつしか、その瞳は見開き、目の前のこれは一体何なのか、とでも言うように、彼を見上げている。
ゲンドウは、この巨大な揺りかごの中でレイを育てた。まだ、外に出すには色々と不安な点がありすぎたからだ。
一番、問題だったことは、彼がゲヒルンの所長の任務だけではなく、常に多忙を強いられていたことだった。ユイの死を、ゲヒルンを叩き潰す契機と見た者達が、彼を業務上過失致死を始めとして、全て目を通すのが気が滅入るぐらい、膨大な罪状を挙げて、告訴してきたのだ。無論、彼らの狙いはゲヒルンではなく、その背後のゼーレだった。
当然ながら、ゼーレは大事な手駒を守るためだけでなく、自分たちの威信を損なわせぬために、また自分たちに盾突いたものの運命を世に知らしめるために、あらゆる手を尽くした。
特に力を入れたのは、マスコミを操作して、世論をゲンドウへの同情一色に向かわせた事だった。マスコミの中で、彼はギリシア悲劇やシェイクスピアの四大悲劇に引けを取らぬ演目の主役、泥臭い芝居に出る狂言回しのタイトルロールだった。彼自身は当時のテレビや新聞など見向きもしなかったから、実際にどれだけの反響を呼んだかは知らないが、セカンドインパクトの混乱で疲弊していた世間の、格好の娯楽にはなったようだ。裁判を見ようとして、おびただしい人の群れが、傍聴席の抽選のために、裁判所の周りを幾重にも囲んでいた。
彼にとってこの裁判ほど、思い出したくもないことはない。全ては茶番だった。それなのに、無知な人間達が、ユイを切り裂いた。彼自身にかけられた罵倒や中傷などに目をつぶったとしても、人々は彼女についてありとあらゆる想像をし、ありとあらゆる事を口にするのだ。彼はそれを、どうすることもできなかった。
おびただしい数の人間を、直接にせよ間接にせよ、殺したところで本当になんとも思わなくなったのは、その頃からだった。
裁判で唯一の救いは、終始彼の弁護人として裁判に立ち向かった、ゼーレの抱えていたある弁護士だった。ゲンドウの周りにいた人間以外で、彼だけが、自分の無知を知っていた。ゲンドウの中のユイへの思いを聞き出したりはせず、必要最小限のことだけ聞き出した。あまり話はしなかったが、彼はたった数語でゲンドウさえをも信用させた。最終的に裁判勝てたのは、決してゼーレの裏工作のためだけではなく、本当に弁護士としてはゼーレが抱えていたのがもったいないほどの人物だった。数年後、事故だか病気だかで、彼は死んだ。明らかにゼーレに殺されていた。用済みになったのだろう、というのが、その知らせを聞いた時のゲンドウの感想だった。弔辞の電報を送るのは人に任せた。
そういう事もあって、それほど構ってやれなかったのだが、時間があれば、セントラルドグマと名付けた巨大な空間へ向かい、彼は自らレイに様々なことを教えた。
レイは一年も経たぬ内に、片言の言葉を口にするようになった。時折、無邪気な笑いを浮かべたりもする。
思わず、笑みを返している自分に気付く。そうして、自分が、この「獣」に癒されている事実に。
(シンジはどうしているだろうか)
気付く度に、そう考えずにはいられなくなる。彼を求めて泣き叫ぶ声が胸に響き渡り、痛みへと変わる。それを無造作につぶす。
まるで機械的にその作業を繰り返すごとに、次第に、思い出す間隔が長くなっていることを、彼自身、気付いてはいる。息子に抱いていたものが、愛情だと思っていたものから、侮蔑の入り混じった哀れみへと変わっていることも。それがまた、新たな痛みになる。
自分は本当に、愛情と呼べるものを持っているのだろうか。持っていると思っているものは、そう思っているだけの、まったく違う、別のものではないのか。
答えを知っている筈の女は、いない。
「ねえ・・・」
空気の中を生ぬるい倦怠が漂っていた。効きすぎた冷房により冷やされた皮膚の表面にも、確かにへばりついている。そこを、さらに冷たい何かが伝っていく。指だ。
「後、どれだけ時間があるの?」
彼は身を起こした。傍らにいる女の顔を見なくとも、彼女・・・赤木ナオコが、いつも通り、やや俯きながら、口元に笑みを浮かべているのは分かっている。
この空気は、彼女独特の雰囲気が、漠然とながら形になって現れたものなのかもしれない。背後まで迫っている老いを隠すための化粧と、細い体の下に隠された脂肪と肉と、微香性の香水と。それらが混ざり合った、赤木ナオコという存在。ゲンドウより五つほど年が上だったはずだが、美しかった。彼女を知りすぎたゲンドウには、その中に、美しいだけでは済まされない、何かが含まれていることを知っている。それは、女だから持っているのか、それともこの女だからこそなのか。
「もう出る」
枕元に置いていた腕時計を見て、彼はその傍らの時計を取ろうと伸ばした手を、ナオコがそっと触れてきて止めた。
「次は、いつ会えるのかしら」
「分からない」
素っ気無く言うと、「もう」と、腕をつねられた。
「仕方ないわね。二人とも忙しいもの」
この女はいつも、「仕方ないわね」とか、「まあいいわ」などと言う。時には心地良くあるが、時には耳に障る。
その上、何かと彼の世話を焼きたがる。今もまた、「服ぐらい、きちんと着れるようになさい」と、彼の着替えを手伝う。時折ゲンドウは、ナオコは彼の世話を焼きたいのではなく、世話を焼けるのなら誰でも良いのではないか、と思う。
赤木ナオコは、自分からゲンドウに近付いてきた。
ユイがまだ存在していた頃から、彼女はそれとなく意思表示をしてきた。その頃は何とも思っておらず、彼女は大勢の部下の一人にしか過ぎなかった。
それが、急激に接近したのは、ユイが消失してからだった。
「なぐさめてあげる」
唇を合わせながらささやかれ、そのまま床の上に倒れた。続いて訪れた、果てしなく繰り返される甘美な時間。
ナオコによって、彼はこうしたことの楽しみ、というものを知った気がする。
ユイとの時は、行為よりも気持ちの方が強すぎて、楽しむどころではなかった。それ以前は、相手のことなど考えず、自己処理をしていたも同じだった。
ナオコは、自己処理の道具として扱われる事に満足するはずもなく、彼に対して技巧を凝らすと共に、彼に何をして欲しいのか、それとなく示した。その癖、はっきりと口に出して要求するよう彼が言うと、「何を言うのよ」と、恥ずかしげに顔をそむけた。
そうした、一つ一つの事そのものは楽しい、といえるものだったが、それに付加されてくるナオコの気持ちは、あまり嬉しいものではなかった。最初からあったその気持ちは、時が進む毎に、次第に大きくなっていた。
結局、彼は最後まで、赤城ナオコという女を、好きになれなかったのかもしれない。
彼女の「仕方ない」という言葉の裏には、「でもいつかは私を愛してくれる」という、過剰なまでの自信があった。
その高慢さを。
いつしか、彼が心から肩の力を抜けるのは、レイの前だけになっていた。
彼は、子供というものが嫌いだった。子供だから感情的な行動が許される、というのは理に合わない。何歳だろうと、行動は行動であって、許されるものではない。その思いが、レイと接していた時、言葉に出さずとも態度に出ていたのだろうか、気付けば、レイは感情的になって行動する、ということが全くなくなり、おとなしいを通り越して、黙り込むことが多くなっていた。
といっても、感情や表情がなくなったわけではない。笑いもすれば泣きもするし、怒りもする。そうした表情を見せることが、ゲンドウには嬉しかった。
ゲンドウの右腕であり、ゲヒルンの副所長である冬月に対面させたのは、そろそろ外に出す事を考え始めていたときだった。冬月には、レイのことを話してはいたが、引き合わせたのはこれが始めてだった。
「色が白いな」
レイを一目見るなり、冬月が発した言葉がそれだった。
「ヒトの幼児に見せかけるには、体も細すぎる。ちゃんと見合った栄養を摂取させているのか」
レイはうつむいていた。冬月の、自分を見る目に、ゲンドウのそれとは明らかに違う、何かを感じたのかもしれない。ゲンドウは、冬月のそうした目を、彼の教授時代に見たことがあった。実験材料を見ている時のそれを。
「ああ。だが、肉や魚は食べない」
不思議な事に、レイは肉類と、魚介類の食事を受け入れなかった。無理に食べさせると吐いた。何度かそれを繰り返して、ついにその問題は棚上げとなったままだった。
「アレルギーか?」
「いや、精神的問題のようだ」
「そうか。とにかく、蛋白質と油質の摂取に気をつけてやれ。菜食でも十分な量の摂取は可能だ。何なら、栄養士の指導を受けたらどうだ」
「時間がない」
そこで彼は話を打ち切った。本当は、そこまでレイに対して、何かをしてやる必要を感じなかった。
冬月に会った後、レイはますます黙り込むことが多くなった。言いたい事があるのか、と聞くと、何でもない、と返ってくる。
初めて外に連れ出したのは「レイ」が五歳になったとき、2010年だ。
外、といっても、とりあえずはネルフの内部を見せるのみにとどまった。これから、彼女がその一日の大半を過ごす場所だ。普通の子供は好奇心一杯に見上げる空間を、レイは特に興味を示すそぶりを見せなかった。
その時、赤木ナオコとも対面した。
「あら。所長のお子さんですか?」
表ではナオコは、二人の関係をちらつかせなかった。目つきの一つさえ、二人で会う時とはまるで違う。ゲンドウは彼女に合わせれば良かった。
「いえ。知人の子を預かることになりましてね。綾波レイ、といいます」
「レイちゃん、始めまして」
ナオコの傍らにいた彼女の娘、リツコが、少しかがんでレイに話しかける。レイも、「はじめまして」と、彼が教えていた通りに答える。が、頭を下げさせるのは忘れていた。挨拶はするものの、リツコの顔を見上げたままだ。
この時、レイを見るナオコの顔には、何かがちらついていた。ゲンドウはそれに気付いていたが、特に追求しようとは思わなかった。
「我々は、いや私は、あなたの力を必要としています。来てくれませんか」
赤木ナオコは、その一言で、落ちた。
細かい事は後でいくらでも説明できる。今は、この科学者をその気にさせる。その野心と潔さ。ありふれた言葉と共に、目の前の男は全身でそれらを語っていた。だから、落ちた。
彼はその時、落としたものが、目の前の科学者だけではないことに気付かなかった。
落としたものは、目の前の女もだった。
恋をするのは好きだった。最初は、久方振りの恋を、手の中で転がすようにして、その感触を楽しんだものだ。
けれど、心から少女の初恋のようには、行動できる筈もなかった。彼女はそうするには余りにも多くのことを知りすぎていたし、彼にはすでに妻子がいた。しかも、彼の妻は、無邪気と無垢の、象徴のような女だった。
男は汚れなき姫君を好む。
彼女は、姫君が死んでしまうことを望んでいた。せめて、早死にでもしてくれないと、不平等すぎる。
そう、自分が望んでいた事に気付いたのは、望みがかなった時のことだった。彼女は恐怖に怯え、後悔の念に駆られた。
嬉しかったことが。
そうして、姫君に触れていた男を、汚すようにして抱きしめた。汚すことが、自分でも原因のわからぬ、姫君への復讐だった。
いや。本当は分かっている。もう、彼女のように無知と無垢で彩られた、少女の心でいられぬ事が、悔しかったのだ。そうするには、自尊心が邪魔をした。
誰もが、彼女を美しいと誉めてくれる。誰よりも美しく、誰よりも聡明な人と。けれど、今は自分に、老いが降りかかりつつある。もうすぐ、誰も自分を女として見なくなる。もうすぐ、誰も自分を愛してくれないようになり、尊ばなくなる。いったい、何人の美女が、何人の天才が、老いのために、永劫さえ詠われた筈の玉座を呆気なく引き摺り下ろされたのだろう。そうした悲劇を知っているということ、それが更に、彼女には哀しい。
いつも、鏡の中の自分と向き合う。髪が薄くなっていないか(なんと豊かな髪の量だ)。髪の色が白くなっていないか(素敵な髪の色をしているね)。肌は荒れていないか(本当に徹夜明けなのか?信じられないな)。しみが現れていないか(美しい肌だな。これはどこにもないものだ)。皺が増えていないか(一体、いくつなんだ?まさか、年をとるごとに若返っているんじゃないよな)。肉は弛みを帯びていないか(細いな。抱きしめるのが怖くなる)。脂肪が醜くついていないか(程よい脂ののりだ。好きだよ、こういう体)。いつかは敗北するのが分かっていて、彼女は戦いつづける。
時折、水の中で、いつか溺れ死ぬのが分かっていながらもがき続ける自分を想像する。
男がいる、ということも、結局はそのもがきの一つにしか過ぎないのかもしれない。でも、こんなに愛しい。手放したくない。
手放されたくない。
娘と軽い雑談を交わした後、先に帰した。片付けておきたい仕事がある。それに、あの男も来るかもしれない。
しばらくして、扉が開いた音に振り返ったナオコが目にしたものは、小さな小さな少女だった。
「あら、レイちゃん。迷ったの?」
笑いかけた。
「私ももう帰るの。一緒に出ようか」
「いい。ひとりで出られるから」
少女は無表情に答えた。
(そういえばこの子、どこから現れたのかしら)
ナオコの脳裏をその疑問がかすめたが、すぐに消えた。
「でも、一人より二人の方が安心でしょう」
「だいじょうぶよ。ばあさん」
何を聞いたのか、理解するまで時間がかかった。どうにか平静を保って、微笑んだ。
「人のことを、ばあさん、なんて言うものじゃないわ。気をつけなさい。所長に言いつけるわよ」
「所長がいってたもの」
平然とレイは言った。続けて、畳みかける様に言い放つ。
「あなたのこと、ばあさんって」
「・・・嘘よ」
しかし、そう言った自分の言葉の方が、ナオコにとっては嘘臭く聞こえた。
「ばあさんは用ずみとか、ばあさんはしつこいとか」
「嘘よ。嘘よ!」
しかし、否定すれば否定するほど、頭の中は少女の、嘲るような声に満たされていき、誰かの声と重なっていく。
(ばあさんは用済み。ばあさんはしつこい)
微かに笑みを浮かべる少女の顔が、誰かの顔と重なる。
胸が苦しい。
体が震える。
(私がいくら欲しても手に入らないものを手に入れたのか)
誰かが叫ぶ。
体が熱い。
(そうか)
手が、熱い。指先が熱い。
(叫ぶのは私か)
そして。
彼女は、
「あのひときらい」
ナオコと会った後、レイはそう言った。感想を述べる事そのものが珍しかったが、はっきりと、嫌いだ、という事は稀だった。
「誰の事だ」
レイがたとたどしく特徴を述べた人物は、間違いなくナオコのものだった。
「所長もあのひと、きらいでしょう」
「あの人はうるさい」
嫌いだ、とはっきりと言う代わりにそう言って、苦笑した。
「やかまし屋のばあさんだ」
「ばあさん?」
レイは、その言葉に潜む悪意を嗅ぎ付けたようだった。楽しそうに、「ばあさん」と、繰り返し唱えていた。
それから、レイは頻繁に、ゲンドウの口から「ばあさん」の悪口を聞きたがった。ゲンドウは思いつくままに、レイの気の済むまで、悪意を込めた言葉を並べたてた。その頃はもう、ナオコへの思いは冷めつつあったため躊躇いはなかったし、レイがここまで何かに興味を持つのは珍しかったので、それがどこまで持続できるものか、見てみたかった思いがあった。
だから、レイがナオコに言った事は、ゲンドウから聞いたものを、そっくり伝えただけなのである。だが、彼はレイがナオコに、何を言ったかを知る事はなかった。
レイがいなくなった時、彼はふと、立ち上がった。レイがどこかへ行ってしまうことは珍しい事ではなかったが、必ず彼の元に帰ってきていた。だが、この時は何か、予感がした。
「冬月、少し席を立つ。すぐに戻る」
「ああ」
見慣れた通路の闇が、彼には湿り気と異臭を帯びているように感じられた。
いくつかの部屋を確認した後、その扉を開いた。
まるで絵のようだった。彼の目の前で、女が、少女の首を絞めていた。
少女の体は、すでに動かなくなっていた。
扉が開くまで、自分が何をしていたのか、ナオコは知らない。
気が付くと、手の中に、人形のような少女がいた。少女はすでに息をしていなかった。
「あ・・・」
思わず手放した。少女は物となり、彼女の足元に落ちる。
彼女の目は、今入って来た男に注がれていた。
男は彼女を見ていなかった。
「レイ」
少女に駆け寄り、彼女の足元から素早く奪い去り、抱きかかえる。その間、視線は一度として、彼女に向けられない。
少女の顔が、再び、誰かの顔と重なる。
そこで初めて、男が彼女を見た。
彼女が望んでいた感情などない、目。
「ああ・・・」
体が爆発しそうだった。何か行動をしてくれ、と言っている。
笑った。小さく。次第に大きく。最後には、体が張り裂けるばかりに。
彼らに背を向ける。足が、もつれながらも動いた。軽く、時にはつま先だけで、時には滑るように進んでいく。
天を仰ぐ。天井はあったが、それは闇に飲み込まれ、彼女の目には見えなかった。
(気持ちがいい)
と、彼女は立ち止まり、振り向いた。そこに、小さな白い塊を抱えた黒い男が、こちらを見ていた。
醜い。
そう思えた事が、嬉しかった。
心の底から、嬉しかった。
「あなたは彼女を愛しているかもしれないけれど」
自分が何を言っているのか、もう彼女には理解できなかった。けれど、その言葉を口にした時、嬉しさに満ちていた胸に、何かが突き刺さった。
(これは何かしら)
けれど、それすら今は心地良かった。
「彼女は、あなたを愛してなんかいないわ。あなただって分かっているんでしょう?」
目の前の光景に向き直った。天は高く、目の前の地もまた深い。地の底に、何かが横たわっている。三つの箱。三人の賢者。
(ああ、あれは私だったわね)
彼女はもう一度、笑った。
(すぐに行くわ。すごく、気持ちがいいだろうから)
力の限り、地を蹴る。
飛んだ。
赤木ナオコが視界から消えるのを、彼は他人事のように眺めていた。
ただ、彼の心には、最後に彼女が見せた表情と、その口から紡がれた言葉が残った。これから彼に深い影を落とすだろうと思われ、事実そうなりつつあるのを実感していた。
あれが、彼女の本来の姿であり、本来の表情だったのだ。だが、それを見せたのは彼女が全てを捨てたためであり、そしてその時、全ては手遅れだった。
抱えているものに意識を戻した。腕の中の物体は、もうどんな処置も無駄である事を示し始めていた。
「レイ」は互いの精神がつながっている。代々の「レイ」の記憶は受け継がれていくのだ。
だが、それは例えるなら書き溜めたノートを手渡ししていくようなもので、それを読んで知識を自分のものとする事はできても、実際に書き溜めていった感触は決してない。
だから、彼は悟っていた。彼を不思議そうに眺め、感情を一つ一つ覚えていき、冬月の目に怯え、ナオコを「ばあさん」と連呼した、あの小さな少女は、もうどこにもいないのだ、と。
おそらく、自分は何かを手の中に置こう、とは思わなくなるだろう。彼はそう予感した。
予感は当たった。
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