絶えぬ吐露よりの抜粋




「綾波って、いつも父さんと一緒だよね」

 目の前の人はコーヒーを際限なくスプーンでかき回していた手を止めて、そう言った。カップに出来ていた渦はそれでも止まらない。

「いつもではないわ」

 渦が止まっても今度は浮き出る泡が残る。泡が消えてもコーヒーの中の粒子の活動は永続する。・・・そんな想像はいくらでもできる。

 でも、今はこの人との会話の方が大事だ。

「そうかな。ネルフに二人でいるのをよく見かける」

 碇シンジ。サードチルドレン。学校の同級生。話しかけられもした。彼が家に来たことも、彼の家に行ったこともある。

 そして、碇司令の子供。

「会うのはほとんどネルフよ。あなたもネルフではいつも同じ行動をしているでしょう」

「うん。だから、綾波が父さんといるのを見かけやすくなるのは分かってる」

 どうしてこの人は会話を同じところに進めておきたがるのだろう。まず学校での話になり、天候に関するとりとめもない事項に移る。次が第三新東京市内における事件または瑣末な出来事、最後にネルフ内の人間、主に彼が同居している二人との、私事での話に行きつく。

 木漏れ日のかかる喫茶店で向かい合って座り、彼の話を聞くこと自体は不快を覚えない。ひとつひとつの話について、感想を尋ねられたのに答えることで、相手が何を得られるかは不明だ。

 そして、彼の話は最後に碇司令のことに触れる。

「僕は父さんの側にいることがないから、綾波と一緒だって感じてしまったのかもしれない」

 その言葉が何を示そうとしているのか、それも分からない。


 *

 三日前を最後に、司令とは会っていない。

「レイ」

「はい」

 ついて来るよう言われ、水槽から出ていった。

 姉妹達がざわめく。口々に一時の別離を告げるその言葉は、ほかの誰にも聞き取れない。


 水槽から出ると様々な検査を受ける。その為に服を着る。検査の際には服を脱ぐのに脱ぐ為に着ている。何度も繰り返される行為は皮膚と材質の厚い制服と冷房のかかる空気との境をあいまいにした。

「今日は終わりだ」

「はい」

 言葉が境を再び作り出している。呼びかけと返答。反復し、繰り返し、さらい出す。

「部屋で待っていろ。すぐに行く」

「はい」

 そしてまた、繰り返す。


 *

 喫茶店を出ると少し歩くことを誘われ、了承した。

「近くに公園を見つけたんだ。行ってみよう」

「ええ」

 彼は不快でないことを知っているのかもしれない。公園は一人になれるのでよく行く。


 着いた公園は見たことがなかった。草木が生い茂り、よく手入れされた植え込みで公道との区切りが作られている。

「どこか、座れるベンチはないかな」

 入り口からでは全体を見渡せない。一周して、ベンチを探すことになった。並んで歩く。

「それとも、歩くのは疲れた?」

「いいえ」

 日の光も夕刻を過ぎた為か弱まっている。風もそよいできた。

 靴越しに、遊歩道のアスファルトがまだ熱を持っているのを感じる。彼の歩調に合わせるのは忙しくないので、そんなことに気を取られていた。

「こうやって一緒に歩くの、何度目だろう」

「数えていないわ」

「僕もだ」

 声を漏らして笑う。何と答えるべきか考えていると、

「綾波はあまり笑わないんだね」

 と言ってきた。すぐに手を振って、

「あ、ごめん。非難している訳じゃなくて。どういうときに笑うのかな、と思っただけで」

 早口に告げる。答えるべく思考を巡らし、記憶を辿る。一番最後に笑ったのは。

「碇司令と話をする時、よく笑うわ」

 彼の顔がめまぐるしく動くのを一瞬、止めた。再び動き出した顔は笑っていない。

「そうか。そうだよな」

 その姿に何も言葉をかけられない。


 *

 司令の部屋は、時折ネルフで休息を取るだけの為にあると聞いた。

 度々この部屋に来るよう言われるので、食事の摂取や入浴はこの部屋で行うことが多い。与えられている郊外の部屋はあまり使わないので埃がよく積もる。

 この部屋は埃が積もらない。司令に言われて入ったときは必ず、食卓に二人分の食事が並べられている。


 それほど待つこともなく司令が来る。

「温め直してから食べるか」

「いえ」

「そうか」

 食事を摂りながら話をする。内容は後で思い出せない程度の軽いものだ。

 でも、よく笑う。

 司令が笑うのにつられるのか、それともつられて笑っているのは司令か。この時、記憶が欠落する。主に人の存在が脳裏から消失し、感情とそれを増幅させる言葉の断片のみが記憶に残る。


 終われば、全てが元に戻る。片付けと就寝の準備は一時間もすれば済む。

 灯りを消す。

 シャワーを浴びたばかりの体はまだ熱を持っている。そこへ、浴びても既に熱を奪われたのか、すでに冷たい手が腕を掴んでくる。

 もう片手が後頭部に添えられてきて、横向きにベッドに寝かされた。安定したところで背と脚に腕が回る。

 腹部に、髪のさらついた感触があたった。

 手を回し、寝息が聞こえて来るまでそのままでいる。やがて寝息に引きずられるように視界が暗転する。

 この習慣の意味を考察するようになったのはつい先日のことで、結論は即座に出た。司令は、この習慣なしには自然に眠れない。習慣を外す時は薬を服用していると聞いていた。

 まだ寝息が聞こえない間、時折、何事かを漏らしている。「レイ」ではない。よく似た、最初の子音だけが違う言葉を。

 何度も聞くうちに、最初の子音が何かを知った。


 *

 やがてベンチが見つかり、座ることが出来た。あずま屋にプランターが並べられていて、大輪の花が咲いている。

 誰が手入れをしているのかという、とりとめも無い話が途切れた。

 何も話してこない。話しかけるべきなのかもしれないが、ふと、彼との距離を思う。ベンチの半ばに座るようすすめておいて、自分はもう少し身をずらせば身体がベンチからずれ落ちるほどの端に座っている。落ちないでいられるのは、ほんのわずかに身体をこちらに向けているからか。

 虫の音が響く。雲が空を覆い、夕刻である証拠として紅に染まっている。

 目を転じた。彼がこちらを見つめている。

「あのさ」

「何」

「うん。父さんのことなんだけど、これだけは言っておこうと思って」

 顔を背けはしたが、話を中断する通常の様子は無い。彼の話に耳を傾けることにする。

 次からの言葉に、彼の話し方によくある、うろたえたような様子は消えていた。

「以前、綾波と父さんが楽しそうに話しているのを見たんだ。そのときは何だか嫌な気持ちになった。僕のことはずっと放っておいて、綾波にはあんな表情を見せるんだ、って思ったし。それ以上に綾波がそんな父さんだけには明るい顔をしているのが、あんな奴のどこがいいんだよ、って正直思った。うん、言葉が悪いね、ごめん。・・・でも、まだ納得はできないけれど、二人が楽しそうなら、それでいいと思えるようになれた。綾波がいてくれたおかげで、やっぱり父さんとの距離は遠いんだな、って思えるようになれた気がする。綾波や父さんから見たら僕も遠いんだろうね。でも僕はちゃんと見ているから。いや、多分、どうしても見てしまうんだ。だから、僕がそうできない分、綾波には父さんの側にいて欲しいんだ」

 呼吸が困難になっている。。彼は誤解している。けれど、何を誤解しているのか、具体的に把握できない。

 やっとのことで息を吐き出しながら、「そう」と言えた。

「ありがとう」

 返答しながら、彼がこちらに向けてきた笑みも正面から受けられない。

「きっと、母さんの側にいた父さんもあんな表情をしたんだろうな」

「母さん」

 彼が「父さん」と呼ぶものは司令と容易く頭の中で同一に合わさる。しかし、「母さん」と呼ぶものは、何と同一にすれば良いのか。

 彼は一転して屈託もなく話してくる。

「母さんは僕が小さい頃に死んだんだ。けれど、母さんに対する、何か、こう、温かい印象は残っている」

 そう言った彼の表情は、笑いかけてくれる司令のそれと、似ている。


 *

 数週間前だった。

 ネルフの化粧室に入ったら、赤木リツコ博士が洗面台の鏡に向かっていた。

「あらレイ、こんにちは」

「こんにちは」

 鏡越しに一瞬口元が上がったのが見えたが、すぐに消えた。それより、彼女のしていることは見たことの無いものだった。用を済ませて個室を出て来た後も、鏡に向かっている。よく見ると鏡を見ながら、髪に何かを塗り込んでいた。

「気になる?」

 横で手を洗っていたところを語りかけられた。事務的な用件以外で彼女と話すことは無い。けれど話してはいけない、という訳でもない。それにこの件について説明されるのは不快ではない、と思い、頷いた。

「髪のカラーリングよ。本当はこんな間に合わせではなくてちゃんと美容院に行くべきでしょうけれど、そうも言っていられないから」

 それから先は未知の話が続いた。近年は誰でも手軽に行えるものらしい。

「そうね、レイも一度、試してみたらどうかしら。簡単よ、洗えばすぐに落ちるものもあるの」

 髪の色が変わって何の意味があるのか、という思いがあったものの、反対する理由はなかった。


 数日後、訓練が終わり、司令が出張先から帰ってくるまで少し時間があった。待っているところへ現れた赤木博士は即座に洗面台の前に引っ張った。

「嫌ならいいのよ」

 髪に櫛をあてながら言ったのに、首を横に振った。かけられる液体の冷たい感触がする。作業は始まった時と同様に、唐突に終わった。

「できたわ。さ、目を開けて」

 うながされて目を開けると、鏡の中に髪の色だけが変わった姿があった。確かに印象が変わる。頭部を覆う色を変えただけなのに。

 赤木博士は他に、染めた髪と同色のカラーコンタクトも持って来ていた。カラーリングの方法と同様、コンタクトレンズのつけ方も教わる。どちらも次からは一人でできると思われたが、いつそうするかは分からなかった。染料とコンタクトの容器を「プレゼントよ」と渡される。

 髪と瞳の色を変えたまま、洗面所を出た。見知った職員が表情を固まらせて立ち止まり、口々に声を変えてくる。

「たまには気分を変えさせてあげようと思ったの」

 一緒に歩いている赤木博士が説明してくれる。

 そのまま、司令を待っていた地点に戻ると、司令が既にその位置に来ていた。正面から向き合った状態で立ち止まる。

「あら、司令」

 数日前、何をしているのか気になるか、と尋ねてきた時とまったく同じ声色だった。その二回以外、彼女のその声色を聞いていない。

「どうですか。うまく変身させられたと思いません?職員の皆にもなかなかの好評だったんですよ」

 司令は返事をしなかった。返事をしない代わりに、言葉ではない声をわずかにあげている。やがて顔を横へ向けた。その視界に赤木博士が施した変身は入らないと推測された。

「やめてくれ」

 そのとき以外聞いた事のない司令の声は、一瞬のみ、赤木博士にも言葉ではない声をあげさせた。

 しかしそれに代表される他の事項は、後に何度か記憶を反芻した時に発見することになる。何よりも、司令が言葉を発したきり、しばらく顔を背けたままであること以外に意識を集中できないでいた。

 司令は顔の向きを戻した。

「レイ。満足したか」

 満足した、という言葉の意味を思い出すまでしばしかかった。事前に予期していた通りの展開に対して良い気持ちを覚えること。

 そうだろうか、と疑問がかすめた。何も予期していない。唯一当てはまるのは、赤木博士の進めに従えば何かが見られる、という感覚だったそれを予期というのならば、展開はその通りになっている。

 司令が先ほど浮かべた表情を思い返す。

「分かりません」

「分からないならもうやめた方がいい。赤木リツコ君」

「はい」

「そういうことだ。二度とすすめないでくれ」

「はい」

 赤木博士は口元を上げている。知っている。司令が彼女をそう呼んだ後の夜、司令と会うと、赤木博士の匂いが染みついている。

 髪と瞳を元に戻した後、染料とコンタクトの容器を返すべきか考えた後、やめた。


 *

 日が沈みきり、街頭が目につくようになってから、ようやく彼は「送るよ」と立ち上がった。断ったのに、それは出来ないと言う。了承した。

「でも、大通りまでにしましょう。そこから家まで送られると、あなたに余分に歩かせるから」

「いいから、行こう」

 手を掴まれた。彼が力強く歩くのにどうにかついて行く。あまりにも引く力は強く、速いので、転ばないようにすることに意識を集中する。彼の顔は見えない。

 こうして掴まれると、彼の手が固い作りになっているのが分かる。すでに熱い。彼もしがみついてくると、熱を感じさせるのかもしれない。その体の熱は違っているとも、同じとも推測される。

 就寝時に薬を服用するという話は聞いていない。眠る際の様々な話からも考えると、彼は一人で自然と眠りにつける。そしてそれは大半の人類に当てはまるとされている。

 彼には熱は不要なのか。彼が熱を要求することはあるか。

 考えを転じる。しがみついて眠っているのは本当は誰なのか。

 司令に添えた手に何度か力を込めているのを思い出す。体をひねっても、司令の腕が動かないのに体が震えているのを覚えている。目が覚めると誰もいないのに、何かを覚えながら起き上がっているのはいつものこと。

 以前は何も分からず、勝手にしがみつかれて勝手に眠った。熱はなく、すべては切り離されていた。変化が訪れたのはいつからなのか、推測することも困難になっている。

 そして認識は他者に思いを転じさせる。碇君は違う。現在の時点では、彼は熱を必要としていない。手を握っているのは熱を伝え合う為ではなく、歩調を合わせることと、彼が家まで送ってくれる行為を遂行するためのものでしかない。

 断定はしない。しかし熱を伝え合う為の行為は彼にとって、それ自体が目的ではない可能性は否定しない。

 彼はやがて手を離す。手の熱がなくても彼は生きる。

 では彼に酷似した別の存在との相違点は。

 熱を要求する点は彼と異なる。共通しているのは熱。熱を分け与える。彼の手が今、そうしているように、記憶の中の腕がそうしていたように。

 しかし、要求している熱は現状と同一か。

 断定はしない。しかし熱を伝え合う全ての行為は、それ自体が目的ではなく、過去の事象の反復により目的の類似物を手に入れているに過ぎない、と考えることは可能性として否定しない。

 波状に広がる可能性に呑まれている。手を引きかけると、熱を帯びすぎた手の皮膚から汗が滴ってすべり、外れかける。

 骨にきしみを感じた。わずかな間、彼が手の力を込めてきたので、手のつながりは元に戻り、より一層の熱を帯びる。

 間違っていたのは最初の仮定か。彼は熱を欲しているのか。それとも、熱の上下に気付かないのなら、やはり彼は熱を欲していないのか。

「着いたね」

 急に立ち止まったのにどうにか合わせた。彼はようやくこちらを向くと、うつむいた。その視線の先に手がある。

「・・・ごめん」

 手が離れる。拳を作ってみると、まだ熱い。

「どうしてそんなことを言うの」

 彼は頬をかく。その手の平はかすかに赤い。

「だって、あの、・・・綾波、嫌だったろ。こんな、無理矢理手を掴むなんて真似して」

「いいえ」

「え」

 彼の手はまだ赤い。それとも、あの手の色は元からの色で、熱を伝え合ったと思ったのは間違いか。

「嫌と思ったか、と聞いたのでしょう。いいえ」

 そう告げて、「ここでいいわ」と背を向けた。

 腕を引かれた。

 体が後方に傾く。足を一歩退いて、倒れるのを防ぐ。

「ご、ごめん。じゃなくて」

 彼は又掴んできた熱を、前方に回ってきながら握り直す。手に向かっていた視線が上がる。

「嬉しい。ありがとう」

 一息もつかずに言って、また手を離した。横に移動する。部屋へ行くように、とのことらしい。従うことにする。

「おやすみ」

「おやすみなさい」

 答えると、彼は笑った。階段の踊り場を曲がって姿が見えなくなるまで、それは崩れない。


 目的の物はすぐに見つかった。手順を忘失してもいない。

 記憶を誤っていないのならば、この後の予定は分かっている。

 家を出る。そして、既に床についている司令の側で眠る。

 そして、連絡は何も無い。つまり変更は無い。


 仮定と疑問の波状がある。

 この熱による繋がりの根源が、ネルフの地下でさざめいている姉妹達とすれば、他者にとっての姉妹達とは誰なのか。熱とその人物とを再びつなげることが不可能だとすれば、酷似した存在を見出し、その存在から異なりを削除することでそれに代えることは可能か。可能とすれば根源とは一体何なのか。不可能としてもやはり根源とは一体何なのか。

 また、根源とのつながりを絶つと何を見出すのか。

「分からない」

 口に出しながら扉を開ける。灯りはない。構造は把握しているので灯りは点さない。

 彼は、嬉しい、と言った。

 嬉しい、とは何なのか。満足することを歓迎すること、とは。満足することは理解の外であり、したがって嬉しい、も理解の外となる。

 部屋で司令は眠っている。身を横たえて側に行くことで、ようやく息を聞き取る。座り、顔を見る。

 司令が行っていることが、根源と酷似している存在と熱を与え合うことによって満足することとして、更にそれが熱を与え合いたい根源との行為が不可能であるから、という前提の下に成り立っているのならば。

 根源との異なりを無くし、司令が本来の満足を得なければならない。

 そして根源に関して、司令を理解しなければならない。同じ立場になることで。

 手順として、後者を実行する前に前者を確認する。後者を先に実行することは前者の実行を不可能にする。また、前者の結果が失敗であったと確認されても、後者への移行をためらってはならない。

 首に触れる。温かみを感じる。指を後方に回し、喉に爪を立てた。

 力を入れる。

 司令の目が開いた。その視界に髪と瞳を入れた。部屋は完全な闇ではなく、色も認識される。

 何も言わない。

 更に力を入れる。

 言わない。

 更に。

 不意に口が動く。

 「もういい、レイ」


 手を離してしまった後、何故か咳き込んだ。部屋の隅で数度回復を試み、それに成功すると目の中のものを外し、くずかごに投げ入れる。

 洗面所へ向かう。水を流したのに首を突き出した。体が冷える。構わずに髪を乾かし、戻った。

 「司令」

 はじめて、動かないでいる司令からではなく、手を回す。結局、前者は成功せず、後者は。

 まだ動かない手を取り、背に回した。それでやっと眠る。


 *

 朝。

 電話で待ち合わせた場所へ走ってくる少年が手を振るのに手を振り返すと、笑ってくれた。

 今日は最良の一日だと、そう思えた。




 小説一覧へ
 研究室入り口へ

 感想はメール訪問者記録帳までお願いします。

inserted by FC2 system