仰ぐは天の・・・




 ときおり見る幻の中で、少女は繰り返し、あの日の踊りを彼に見せる。

 彼は言葉もなく、舞台に近寄る。何か言葉をかけなければならない。

 いや、共に舞台に立たねばならない。

 それは彼にとって言葉より確かなものだ。そして、あの踊りを見て、彼女のようにではなく(それは彼にとって自己の破壊にほかならない)、しかし彼女と調和するものを己から引き出したいと思わずにはいられない。そうしたいと思わぬものは、踊り手の資格がない、とさえ考えた。

 彼女の踊りは続く。その足も、歩く彼自身の足も、音を出さない。流れている音楽だけが、場を支配していた。

 後もう一歩で舞台に出てしまうところで、彼は足を止めた。自分が彼女と共に踊れるだけの何かを掴んでいるとは、とうてい思えなかった。そのような存在が出るのは、舞台に対する冒涜でしかない。

 そう、ここからはいつも同じだ。

 動かないでいると、突然音楽が止まる。彼女も動きを止め、舞台上で立ち尽くす。

 そして彼の方を見ずに、感情もなく言い放つ。

 「これで終わり。あたしはもう、あなたの前で踊らない。あなたとなんて、踊らない」

 (待ってくれ)

 彼は声を出そうとする。

 (少しだけ時間をくれれば、きっと何かが掴めるから。残り少ない時間を、それだけのために費やしてみせるから、だから)

 「だって、今の踊りと合わせる気でしょう」

 あるいは何らかの行動に出れば良いのかもしれないが、どちらにしろ、彼女は彼に時間を与えず、今度は彼の方を向き、哀れむような目と共に、言う。

 「この程度のものに」

 するとすべては暗転し、彼はひとり、取り残される。


 『・・・さん?聞こえているんですか』

 「聞こえています。ご用件は」

 やはり聞いていないじゃないか、とぼやく相手に構わず、彼は頭を振って闇を追い払い、彼に戻った。この数時間、多大なる意志をもって記憶から押しやっていた努力が、少し気を緩めただけで泡と消えた。今や、耳の奥であの日の音楽が流れている。それを消し去るだけの気力は、もうない。

 電話の向こうの相手は、そんな彼の心境など知るはずもない。声が小さく届くのだろうと思ったのか、先ほどより大きな声を上げる。

 『例のあなたの生徒ですが、こちらから彼女に直接打診したところ、既に自宅を離れていることが判明しまして』

 「自宅を離れている?」

 『はい。何でも、アメリカに渡ったとか。あなたの下を離れて帰国したと聞いたときも信じられませんでしたが、まさか蹴られるとは』

 受話器の向こうからは、男の声は神の名を呼んでもおかしくないぐらい、悲痛になっている。それもそうだろう。世界でも指折りのスクールが破格の条件を出したにもかかわらず、足蹴にされては。

 「アメリカに渡ったということですが」

 話を振ると、男は我に返ってくれたようだった。口早に言葉を紡ぎだしてくる。

 『ええ、両親から聞いた話では、あるカンパニーに乞われていったそうです。お恥ずかしながら聞いたこともない名でしたので、調べてみたのですが、見つからないのです』

 「つまり、それぐらい、小さな規模のカンパニーにいったということですか」

 『そうです』

 その後の信じられない、と何度も男が漏らしたのを、彼は聞き流した。もっとも、信じたくない気持ちは分かる。精力的に受け入れようとした人材が、かのスクールと肩を並べられるだけ著名なスクールに奪われたのなら、まだしも諦めがつくだろうが、無名のカンパニーに獲られたとなると、何ともやりきれないに違いない。

 「馬鹿が・・・」

 相手に聞こえないようにつぶやくと、もし連絡があれば、今からでもうちに来てもらえないか交渉させて欲しい、という男の乞いを了承し、電話を切った。


 しばらくの間、現実から引き離されないよう、窓の外の景色を眺めていたが、やがて抵抗を止めた。途端、網膜からあの日の光景が浮かび上がる。

 彼女は半年間、彼の生徒でもあった。そして、彼が潰す気でいたその存在は、練習の成果を示したその日、三度踊っただけで、彼が求めてやまぬ者として変貌した。共に舞台に立つ者として。しかし今、彼女はこの手の中にいない。

 (この程度のものに)と彼女の幻は言っている。そうだろう。彼女の踊りはあれが最後ではなく、これからだ。年月を経れば経るほどより昇華されていく。特に、ここ数年の成長はめざましいものがあるだろう。

 そして彼が踊ることを止めてしまう頃には、それは想像もつかないものに、きっとなっている。

 胸がきしんでいる。堪えきれなかった。

 扉へ向かう。一時的にもすべてを忘れるために、スタジオへ行くことにした。

 彼より年上の、そして引退していった踊り手で、時々無我夢中で踊っていた幼児の頃を懐かしく思い出す、と語っていた者がいた。その話を聞いたときは、理解できた。踊り手として年月を重ねていくほど、踊りとはかけ離れているが、無縁ではない様々なしがらみと付き合っていかなければならない。自分が子供だった頃は、他の誰かがそのしがらみと付き合ってくれていたのだろう、と分かっていて、それでも踊りだけを考えていれば良かった頃が懐かしいのだ。

 だが、これはどうしたことだろう。今の彼は、幼児の頃の自分に罵りたくなっている。

 (ただ無我夢中に踊っているだけで、それでお前は満足だったのか。もっと、どこかへ突き抜けようとする意志があれば、あるいは)

 足りない、と感じていた。これまでの自分を費やしても、何かが足りない。

 その物足りなさを感じながら、すべてを終えるのかと思うと、彼は歯を食いしばりながら、スタジオの扉を開けた。

 いくら練習しても、いくら踊っていても、これでいいのか、と思えてくる。初めて踊ったときから絶えず離れず、ついに彼を今日まで導いてくれたその思いは、今、彼のこれまでの半生で一番強いものとなってのしかかり、喰らおうとしている。

 (どうすれば)

 だが、そこへ向かおうとする時間すら、彼には残されていないのかもしれないのだ。


 練習後、また、幻を見た。

 あの日の早朝、部屋からいなくなった彼女を捜して街を彷徨い、ついに見つけだした、あの路上だった。彼女はあの日の格好をし、やはり猫を抱いている。だが、もう、震えてはいない。彼は呼びかける。

 「いらない」

 そして、また、いつもの幻と同じ目で彼を見る。

 「あたしはあなたなんていらない」

 「私にはお前が必要だ」

 「いやだ。たとえ他の全部がなくなっても、あなただけはいらない」

 憎いか、とは聞かなかった。幻に問いかけても、どうにもならない。代わりに彼女の腕の中のものへ目を向けた。猫は、彼の視線を受けたからか、一つ鳴くと身じろぎした。

 「私にも、お前の持つ、他のすべてはいらない」

 猫に向かって手を伸ばすと、はじめて、彼女が顔を強ばらせた。不意に立ち上がると、背を向け、今まで壁のあった空間へ駆け出そうとする。

 「待て」

 「あたしには」

 振り向き様、声を張り上げる。そのようなことをしたことは、現実でもなかったというのに。

 「もう、この子しか残ってない」

 そう口にすると大切そうに猫を抱え直す。

 「お前の動作は、他にも残っているものを示しているのに、か」

 彼女はうつむく。ゆっくりと手を伸ばすと逃げず、もう少しで猫が手に届く。

 「あたしは」

 歪んだのは彼女だったのか空間そのものだったのか、そこで終わりだった。


 目覚めると、電話をかけた。戻る旨を伝えると、相手は最初驚き、次に嬉しそうに彼の言葉に答えてきた。

 (このような姿を見ても喜ぶものか)

 身体は却って健やかで、表面上は何も問題ない。しかし、彼を少しでも見知った人間なら、彼の何かが変わってしまったことに気付くだろう。それに対して気を使うことすら、彼にはもう出来ない。

 歩いていると、また幻が忍び寄っているのを感じた。そしてまた、彼には何も掴めぬのだと教えてくる。

 どう求めれば、何を与えればよいのか。

 それとも、永久に心から閉め出すべきか。

 だが。

 彼は一つ息を吐くと、また幻の中へ沈んでいった。




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 「昴」は、曽田正人・小学館の作品です。
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