逃避行






 ここには闇しかない。


 一人だった。誰もいない、一人だけの空間。注意を向けるべきものは何もない。けれど、考えを巡らすには適した環境ともいえる。

 これから先、どうすれば良いのだろうか。

 救いを差し伸べてくれる母はいない。今なら分かる。最初から、答えをくれる存在などいるはずもない。いや、答えがあるかどうかも分からない。

 それでも、答えを出さなければならない。

 どうすればよいのか。



 変調は、ゆっくりと訪れた。

 いつもこんな環境に近い場所にいるはずなのに、そのときはどういう訳か、気分が悪くなった。あきらかに、体調に異変が起きている。

 「助けて、・・・」

 その場に横になったが、楽にはならない。

 「お願い、・・・誰か、来て・・・」

 横になったまま、込み上げてくるものを吐く。涙が出る。ひどく惨めだ。

 この部屋に明りが差し込んできたとき、私はほとんど気を失っていた。





 その知らせを聞いたとき、あたしはアスカの病室から戻って来たところだった。

 「リツコが!?」

 「はい。監禁中に倒れまして、現在は病棟に移されました。原因は診察中だそうですが、おそらく、疲労が溜まっていたのと、軽い栄養失調が重なったためと思われます」

 「そう。ありがとう、日向君。今からそっちに戻るわ」

 あたしは受話器を置くと、今、椅子に掛けたばかりの上着を取った。チャックをとめながら、奥の部屋へ向かう。

 「シンジ君」

 返事はなかった。無理もない。

 勝手に入る。彼はこちらに背を向けて、何か音楽を聞いている。クラシックだろうか。残念ながら、そちらの方面にうといあたしにはよく分からない。気配を感じ取ったのか、すぐに音楽が止まった。

 「リツコが倒れたそうなの。今、ネルフの病棟にいるんですって。・・・行く?」

 本当の事を言うと、誘った目的は、リツコの事だけではない。アスカの事もあった。彼は、一度もアスカの病室へ行こうとしない。よくない傾向だ。必ずしも、彼がアスカを嫌っている訳ではない分、余計に。

 「行きたくないの?」

 小さく、肩が震えた。寝ているわけでも、聞こえていないわけでもないようだ。

 「下で待っているから。行きたくなったら、下りてきて」

 彼が受けた傷・・・自分をいやしてくれたものを殺さなければならなかったこと・・・について、あたしはうまく声をかけられないことに気付いた。いったい、何を言えば良いのか分からない。ひどくもどかしい。

 駐車場に行くと、愛車に乗り込み、待った。彼が来るまで、二十分近くかかっただろうか。黙って助手席の鍵を開けると、うつむいたまま助手席に座ってきた。車を駐車場から出す。

 何を話せばよいのか分からない。



 久し振りに見たリツコは、ひどくやせていた。肌がじっとりと汗ばんでいて、髪も重たげにしている。目は潤っていて、長い間の監禁による疲労が溜まりきっているようだった。

 「リツコ」

 声をかけると、宙を浮いていた目を、目玉だけ動かすようにこちらに向けた。ひどくかすれた、小さい声で「何」と、返事がきた。

 「大丈夫?」

 「で、ないわ」

 体の疲労が、彼女の精神も削り取ったのだろうか。どこか痛々しい。

 「ここを出て、病院に移る事になるみたい」

 「病院を移る、って、まさか、そんなにひどい病気なの!?」

 わずかに眉をしかめられてしまった。

 「声が大きいわ。頭に響いて痛い」

 「あ、ごめん・・・」

 ネルフは医療に関しても最新の施設が整ってはいるけれど、あくまで怪我の治療の話で、かなり治療の難しい病気などはそれ相応の病院に移さざるを得ない。

 あたしの発言はそういう背景があったからなのだが、あたしは、病院に移るもう一つの可能性をすっかり失念していた。

 リツコは、ゆっくりと息を吐いた。

 「移らざるを得ないわよ。うちの医療施設に産婦人科はないもの」

 その言葉を理解するまで、若干の時間を要した。

 「・・・それって・・・」

 「ええ。妊娠」

 背後で物音がした。見ると、入り口に突っ立っていたシンジ君が、目を丸くしている。

 「シンジ君の、弟か妹、という事になるのかしらね」

 リツコの言葉は淡々としていた。

 「安心して。迷惑はかけないから」

 「迷惑はかけないって、あんた、まさか」

 「ええ。堕ろすわ」

 「リツコ」

 思わず、相手が病人で、その上妊婦だということも忘れて、あたしは掴みかかっていた。シンジ君がどんな表情をしているのか、見るのが怖くて振り返れない。

 「ミサトの言いたい事は、大体は分かるわ」

 リツコは淡々と言う。

 「けれど、これ以上、苦しみたくないのよ。あの人との子供なんて、産みたくない」

 「いらないんですか」

 リツコ以上に冷淡な声に、思わず振り返った。発言者は、顔を真っ青にしている。

 「お腹の子供は、いらない子供なんですか」

 「ごめんなさい、シンジ君」

 リツコも苦しそうだった。

 「お腹の子供からすれば、ひどい迷惑よね。生まれたばかりなのに、他でもない母親に捨てられるなんて。でも、子供ができたから、寄りを戻そうなんていうのは、許せないのよ。それに、・・・見捨てられた男との子供をまともに育てるなんて殊勝な気持ち、私にはとてもないから。本当に、どうすれば子供ができるのか分かっていたのに、・・・馬鹿だわ」

 シンジ君はしばらくうつむいていたが、「外で待ってます」との言葉と共に、出ていってしまった。

 あたしはため息をついた。

 「ねえ。碇司令は、この事を知ってるの」

 「ええ。報告が届いているはずよ」

 「あんたが、堕胎を希望している事も?」

 「・・・ええ」

 外で、蝉が鳴いている。少しうるさい。

 「あたしは意見なんて言える口じゃないし。まあ、しばらくつきあうわ。出来ることがあったら何でも言って。あ、お金が足りなかったら援助するし」

 「馬鹿ね。中学生じゃないのよ」

 今度は、リツコがため息をついた。

 「・・・いえ、きっと同じね」



 あたしは考えを張り巡らせていた。具体的な話は聞いていないが、リツコは泣き寝入りするような人間ではないから、両者が合意の上で関係を重ねたらしい事は推測できるし、その結果できた子供を、リツコ本人が堕ろすと言っているのだから、第三者のあたしがとやかく言う問題ではない。ないけれど、・・・やはり、何かが腑に落ちない。それに、私の後ろから着いて来ているシンジ君の心境を思うと、胸が痛い。

 せめて、あたしだけでも、リツコの力になろうと思った。後、マヤもいる。彼女も、他ならぬ「先輩」の支えになってくれるだろう。ただ、妊娠のことを教えると、マヤが逆上しないか、その点が心配だ。

 それに、リツコ本人が元通りにネルフに復帰するかどうかは難しい。自分が堕ろした子供の父親が上司だなんて、あたしには想像もつかない状況だ。

 足を止めた。望む部屋に着いたのだ。

 「さ、入るわよ」

 シンジ君をうながす。ただ、無言でそこにいる。

 軽く扉を叩いた。

 「アスカ。入るわよ」

 中はいつも通り、様々な機械が並べられており、部屋の主の生存を告げている。この真っ白な空間は、ただ、静かだった。

 アスカは目をつむっていた。起きているかどうかは分からない。

 「アスカ」

 手を伸ばして、額にかかっていた髪を払ってあげると、少し、反応があった。起きていたようだ。

 「シンジ君が来たわよ」

 うながすと、シンジ君はあたしの傍まで来て、アスカの顔をほうけたように見た。

 「アスカ、・・・」

 うなされた人のように言ったきり、言葉が出てこなくなったらしい。何度も息を飲む音がした。

 アスカの手を取ると、それを彼に持たせた。

 「ほら。何か、言ってあげて」

 できるだけ急かさない調子でそう言うと、ようよう、「アスカ」と言った。

 「元どおりに戻ってよ。起きて、今の僕のことを笑いとばしてよ。アスカの声が聞きたいんだ・・・」

 アスカの手を握ったまま、しゃくり上げる。

 「僕は大事な人を殺したんだ。ミサトさんはあれで良かったと言うけれど、・・・僕には、納得がいかない。カヲル君を殺したのは僕なのに、殺さなくて済む方法もあったんじゃないか、何でそれを考えなかったんだ、って、ずっと考えて、でもそんなことを考えてももうカヲル君はかえってこなくて、・・・あの時、僕はカヲル君は使徒だから殺さなければならない、なんて思っていなかった。ただ、カヲル君が怖くて殺したんだ。カヲル君が僕を好きだと言ってくれたのが怖くて、アスカにも綾波にもトウジにも何もできなかった、僕なんかを好きだと言ってくれたのが怖くて、・・・怖くて逃げたんだ」

 あたしはとっさに言葉がでなかった。

 その気持ちはあたしも知っていたのだ。そう、あの日、愛されて嬉しいはずなのに怖くて、加持から逃げ出したときのあたしだ。逃げ出したときのきっかけが違うだけ。

 結局、愛してくれた人間が死んだところまで同じなのは、皮肉か。

 「ごめんなさい。あたしの言葉が、シンジ君を傷つけてた」

 どうにかそう告げたあたしの言葉に、シンジ君はまたうつむいて、

 「ミサトさんはそういう人ですよね」

 と言った。

 「どういう意味?」

 「・・・所詮は他人ってことですよ」

 目眩がするかと思った。しかしその事について、今は何か言うしかない。気付かれないように、ゆっくりと深呼吸した。

 「そうね。他人よ。あたしには君にちゃんと何か言うことも、してあげられることもない。けれどね、あなたの話を聞くことはできるのよ。そして、あなたの苦しみを分かろうとすることも。そして、あたしはあなたの言いたかったことをちゃんと聞いたし、分かってあげたいと思った」

 「嘘だ。ミサトさんにも、・・・誰にも分かるわけない」

 「じゃあ、どうして今、あんなことを言ったの。何か行動を起こすことで憂さを晴らしたいだけなら、物にでも何にでも当たればいいのよ。でもそこまでする蛮勇もない。それで中途半端に人に甘えたくなる。でも皆はあなたを馬鹿にするかもしれない、あなたを理解しないかもしれない、あなたを傷つけるかもしれない、あなたの話をうっとうしがるかもしれない、あなたの弱い所を指摘するかもしれない。確かにそうなる事もあるわ。でもね、だからといって、どうして今の、何も答えられないアスカに頼るの。・・・本当は、誰かに自分の気持ちを分かって欲しいからでしょう」

 シンジ君の肩が大きく震えた。

 あたしの話を、彼が心から納得したとは言いがたい。が、彼の心に揺さ振りをかける事には成功したようだった。うつむいて、アスカの方に首を傾けたまま、唇をかみ締めている。

 「前、綾波が言ってました。自分には何もないって」

 シンジ君は言った。

 「後で、そんな悲しいこと言うなよ、って言ったんです。でも、自分には何もない、と思っていたのは、綾波だけじゃなかったんです。僕も、・・・たぶん、アスカも」

 側の椅子に座って、改めてシンジ君は、アスカの手を握った。私は自分の手をその上に置いた。シンジ君は避けなかった。

 「エヴァに載れる力なんていらなかったんだ。僕は、・・・僕は、皆を助けられる力が欲しかった。そうしたら、僕も皆の中にいていいだろうから。でも、何もなかった」

 「そんな力、誰も持っていないのよ」

 「・・・え」

 「他人にできるのは助けるための手伝いだけ。人を救うのは、結局は自分なのよ。肝心なことは皆、自分で決着をつけなければならないの。けれど、一人ではなかなか決着の付かないこともあるから、だから周りに他の人がいるのよ」

 シンジ君の手が、少し固さをなくしたように感じられた。

 「もっと早く、アスカにもシンジ君にも言ってあげればよかったけれど。少なくとも、あたしはいるから」

 「・・・ええ」

 シンジ君はゆっくりと頷いた。シンジ君は、そしてアスカはどう思ったのだろうか。

 一緒にいる事が、二人を日常の憂鬱から少しでも逃してくれるのなら、家族ごっこでも構わない。二人の側にいたい。

 そう思った。





 ミサトとシンジ君が去った後も、私は二人が出ていった扉を見ていた。

 食欲はなかった。「しっかり食べないと、また倒れますよ」と医者は言ったが、今の所、どちらでもいい。ただ、時間が経つのを待っている。時間が経って、病院を移り、手術を受ければ全てが終わる。

 「妊娠です」と聞いたとき、私が思ったのは、他の何でもない、ああ、これであの人と本当に切ることができる、という、安らいだ心境だった。

 そう思った事は衝撃だった。結局、レイの入れ物を破壊しても、私自身を変えることはできなかったのだ。

 一体、自分のしてきた事は何なのだろう、と思う。

 でも、もういい。

 扉が叩かれた時、ミサトが戻ってきたのかと思ったら違った。叩くのももどかしそうに入ってきたのはマヤだったのだ。

 「先輩、・・・」

 マヤはそう言ったきり、口をつぐんだ。いつもの彼女の快活さはそこにはなく、ただ、目の回りが赤くなってもなおも涙が出てくるらしい。

 彼女のように素直に感情を表わす存在は、今、一番見たくないものだ。

 私の心を見透かされることはなかった。マヤは、駆け寄るようにベッドまで来るとすがりついてきた。

 「先輩、先輩、・・・無事でよかった、先輩がっ、・・・」

 その後は、彼女の涙腺が休止するまで待っていた。世の中には私を心配してくれる人間が、少なくとも二人はいるというのは、おそらく、私にとっては良い事なのだろう。

 マヤはしばらく泣いた後、ぽつりぽつりと話し始めた。私がいなくなってからの彼女の状況。監禁されていると聞いた時の衝撃。倒れて、病室に運ばれた、と聞いた時は、急いで今日の仕事を終わらせて、すぐに飛んできたという。よく見ると、スカーフが無茶苦茶な結び方になっている。

 「マヤ。今回の事は、私の自業自得なんだから。いいのよ、心配しなくても」

 「そんな、先輩が何をしたと言うんですか」

 「上に逆らったのよ。これ以上は言わせないで。あなたも巻き込むから」

 スカーフをほどいて、巻き直してあげた。マヤはうなだれたまま、動かない。

 「さあ、もう行きなさい」

 そう言うと、マヤは黙って頷いて、

 「・・・早く、戻って来て下さいね。待っていますから」

 と、名残惜しそうに出ていった。

 いい子なのだ。いい子なのだから、今の私には、彼女に会うのはひどく疲れる。

 それでも、彼女が去ると、急にこの部屋の空気がいくらか冷たくなったような気がした。やはり、扉を見続ける。

 次に扉が開いたのは、マヤが去ってから数分も立たない内の事だった。ノックもせずに入ってきた者の顔を見て、私はできるだけ冷静な声を出そうとして、失敗した。

 「何をしに来たの」

 この人が側にいるだけで、頭の中がかき回されているかのようだった。会いたくなかった、という気持ちを前面に押し出そうとしているのに、実際に感じている気持ちはまったく違う。

 多分、そうでなかったら、この人との子供を孕んだりはしていない。

 「様子を見に来ただけだ」

 言いながら、こちらまで来ようとする。「来ないで」と言ったが、無視された。ベッドの際までくると、顎を持とうとしたので、払った。

 「分からないの?もう、あなたとは終わっているのよ」

 見上げるが、憎らしいぐらいに表情が読みとれない。

 「堕胎を希望したそうだな」

 「ええ」

 そのまま黙っていると、サングラスを上げて、

 「後悔はしないのか」

 そう言ってきた。

 手元に目を移した。無意識の内に、ちぎれるのでは、と思うぐらいに強く、シーツを握っている。

 「しないわ。自分の事は自分で始末をつけるもの。あなたもその方が都合がいいはずよ」

 手元に視線を移していた隙に、顎を、手袋に包まれた手で掴まれた。無理に上を向かされる。

 「痩せたな。顔色も悪い」

 「見たくもない人間がそばにいれば、顔色も悪くなるでしょう」

 「皮肉を言える気力があるなら、十分だ」

 手が離れた。強く掴まれたので少し痛い。跡にでもなっているのでは、と、さすった。

 「食事は抜くな。どちらにしろ、体力のないことには母体の身にも危険が及ぶ」

 返事はしなかった。というより、初めて、私を気遣うような言葉がかかったのに気づいて、内心ひどく驚いたので、返事をするのも忘れていた。

 不意に、自分の口から笑いが漏れた。決して大きくはないが、久しぶりに自分の笑い声を聞いた。笑いながら言った。

 「あなたが気を遣っているのは私じゃないわ。自分の子供よ」

 ひどくおかしい。まるで、演出のミスで喜劇になってしまっている悲劇のようだ。答えはなかった。ただ、笑っている私を見ている。

 時計の方を見やり、口を開いた。

 「時間だ」

 そうして、「又来る」と言って、来たときと同じように唐突に帰っていった。

 出ていく姿を見ながら、もう笑ってはいなかった。そうして残ったのは惨めな気持ちだけだった。こんな事なら、医師を説得してでも、さっさと病院に向かえば良かった。休養などその後でとれる。

 いったい、あの人は私をどうするつもりなのだろう。本当に何とも思っていないのなら、ここに来るわけもない。自分の女が裏切ったことを許さないつもりなのだろうか。それが正解の気がした。手元に置いていた人間に裏切られることなど、屈辱以外の何物でもないはずだ。

 早くここを出たくなった。これ以上ここにいると、狂ってしまいそうだ。いっそのこと、狂ってしまった方が楽かもしれなかった。

 ・・・いや、私みたいな理詰めの人間が、狂ってしまえるはずもない。



 その日最後の訪問者が来たのは、日が暮れてからだった。

 彼女の存在に気付いたとき、私は本当に驚いた。それぐらいに気配がなかったのだ。気が付いたら、彼女はベッドの側に立って、私を見下ろしていたのだ。

 「協力して欲しいの」

 驚きの余り、言葉に詰まった私にかまいなく、彼女は言った。

 「ここから逃がして」





 その知らせが来たとき、あたしは耳がおかしくなったのかと思った。

 「・・・まじ?」

 「はい。本当の、本当の、本当です」

 “療養中だった赤木博士が、ファーストチルドレンを連れたまま失踪しました”

 あたしは確かにそう聞いた。受話器を抱え直す。

 「うちの人間は皆、何をやってるのよ」

 「現在、行方を追跡中です。が、・・・」

 受話器の向こうの日向君が黙った。

 「どうしたの」

 「・・・各所の連絡は、MAGIを通して行われていたので・・・」

 「リツコがMAGIを黙らせた、ってわけか。まずいわね。第三新東京市そのものが死ぬわよ」

 「幸いといっては何ですが、十六使徒の時に一般市民は避難しているので、そういう方面からの苦情はまずありません。しかし、全回線の復旧までかかる時間は二、三日か、下手をすると十日間ほどかかるとの事です」

 思わず、舌打ちしていた。このままでは、ネルフ全体の運用に関わる。

 「すぐにそっちに行くわ。それまで、マヤ達によろしく言っておいて」

 「分かりました。それでは」

 受話器を置く。こうなると、リツコの冷静さが憎らしくなってくる。身重の体でいったいどこへ逃げるというのだろう?しかもレイまで抱えて。

 それより前に、どうして逃げだしたりしたのだろう?

 「ミサトさん。どうしたんですか」

 台所に立っていたシンジ君が声をかけてきた。学校もしばらくの間はない(というか、学校それ自体がなくなってしまった)ので、もっぱら家の事をするようになっていた。何か行動を起こそうというだけでも、ずいぶんと進歩してくれている。

 受話器を置きながら、あたしは日向君から聞いた通りのことを言った。

 「リツコさんが、綾波を・・・!?」

 さすがに信じられない様子だ。

 「とりあえず、ネルフに戻るわ。ついでに乗ってく?」

 彼は、黙って頷いた。



 「ファーストチルドレンの自宅の写真です。今朝撮りました」

 渡された写真を見て驚いた。シンジ君から聞いたことはあるが、まさかこれほど殺風景な部屋だとは思わなかった。

 「全然変わっていない・・・」

 一緒に写真を覗き込んだシンジ君も絶句している。

 シンジ君の言葉によると、写真を見た限りでは部屋の様子は特に変わった所はないそうだ。一つをのぞいて。

 「この、・・・」

 写真の中から、一枚を選んで、その問題の所を指さす。

 「床に落ちているものは?」

 「眼鏡でした。こちらです」

 ビニールに包まれている眼鏡は叩き壊されたらしい。フレームもレンズも、無残にゆがんでいる。それを見て、シンジ君が声を上げた。

 「綾波のだ」

 「違うわ。レイの視力は眼鏡の必要がなかったもの」

 「でも、すごく大切にしていたから。てっきり、そうかと思って」

 ふと、リツコがいつか言っていたことを思い出した。

 “あの子、起動実験ので事故を起こして、司令に助けられた時に壊れた、司令の眼鏡を持っているのよ。大事そうに”

 リツコの言っていた“あの子”が零号機と一緒に自爆したレイだとすると、今のレイとこの眼鏡はほぼ無関係という事になる。だからといって、それをわざわざ叩き壊すなんて、普通は考えられない。

 違う。無関心な物なら放っておくだろう。関心のあるものだからこそ、叩き壊した、とは考えられないだろうか?

 冷房がききすぎたのか、寒気が走る。

 「万が一の場合、シンジ君一人に頼るしかないか・・・」

 「僕は」

 「分かっている。万が一の場合、よ。まずないことと思うから、とりあえずは安心して」

 「でも、・・・」

 「しなさい」

 言いながら、あたしは別のことを考えていた。

 間違いなく、レイは、・・・碇司令を憎んでいる。

 さっきまで、あたしは今回の件は、リツコがレイを無理矢理連れ去ったものと思っていたけれど、真相は逆かもしれない。あるいは共犯か。

 あたしには、二人の無事を祈りながら、いたずらに時間が過ぎるのを待つしかないのだろうか。





 駅前のデパートで売っていた白いワンピースは、レイによく似合っていた。同じ白色で、ぐるりと水色のリボンが巻いている、つばの小さな帽子をかぶり、靴下と靴はアイスコーヒーを飲んでいる私の所に放ってある。くるぶしまでを波につけて、あちらこちらを歩く。手を海水に浸す。

 「もう上がりなさい」

 腕時計を見てから私が叫ぶと、レイは頷いて、すぐに上がってきた。

 セカンドインパクト後の日本は常夏なので、遊泳可能の海岸なら、海の家を見つける事はたやすい。私がアイスコーヒーを飲んでいたのもそのうちの一つだ。家の横には脱衣所があり、水道もその横にあるので、レイはそこへ手足を洗いに行く。

 「レイ、忘れ物よ」

 タオルと靴と靴下を忘れているので、ビニール袋に入れていたそれを投げた。どうにかレイの手元に行った袋は、後少しで砂と接触するところだった。

 「慣れないことをするものじゃないわね」

 誰にも聞かれないように(もっとも、今の時間の海の家は閑古鳥が鳴いているが)つぶやいた後、アイスコーヒーの残りを飲みほす。飲み物を頼もうと思ったのはいいが、気付いたら、「薄目でおねがいします、氷も少な目に」と頼んでいた。おかげでとても水っぽい上に生ぬるい。

 どうしてここにいるのかというと、レイに逃亡の協力を頼まれた時、自分も逃亡を考えていたから、という他にない。逃亡する時、レイはその理由を語ってはくれなかったが、揺れる電車の中で、車の中で、少しずつ話した。


 「あの人は捨てるもの」

 「私にとって、死は新しい私との交換というだけ。綾波レイは消えない」

 「私には何も残らない」

 「だからいらない」

 「死んでもかまわない。死にたい」

 「でも、今の私は違う」

 「死んだらいなくなる」

 「私は消えてしまう」

 「消えたらどうなるの」

 レイだけの声が響いていた静謐が消え、音がよみがえった。私たちは前世紀からこの沿線を走る古ぼけた電車に座っていた。窓際の席に座っていたレイは、感情もなくそう言う。

 「消えたら、って、具体的には?」

 「私がいなくなったら、私はどうなるの」

 「知らない、と答えるしかないわ。もちろん、肉体は分解されるでしょう」

 外の景色は山と木々しか見えない。珍しい風景といえた。

 「この体が消えたら、もう私には何も残らないと思っていたのに」

 胸の前で、軽く手を握る。

 「本当は残ってしまう。私を知っている人が、私を覚えている。それが残ってしまう」

 違うの、と問い尋ねるかのように、レイは私を見つめてくる。

 「そうね」

 私は廊下側の席に座っているので、レイと斜めに向かい合っている。正面を向けば、レイの視線からそれるのはたやすい。けれど今、それをしようとは思わなかった。

 「私は忘れられたい」

 うつむいて、レイはそう言った。

 「私という存在も、私を形づくっている全てのものも、私を私にした全てのものも消してしまいたい。・・・けれど、その気持ちが私自身のものなのかも分からない。・・・そして、この願いはかなえたい、けれどそれ以上にかなえたくない」

 「ええ」

 彼女が人間ではないことを、私は知っている。彼女自身も。そのことがどうしようもない感情を、彼女の中で蠢かせているのかもしれない。破壊の衝動。あるいは死の本能。

 そして、それを人間が持っていないなどと、誰が断言できるだろう。下腹部に手を置く。



 海岸沿いに歩くと、波の音が耳に心地よかった。空も高く、水平線も遠い。悪阻も大分治まっていた。こんなに心地よいのは、やはり全てを捨ててここまで来たからだろうか。そう考えると、少し後ろ髪を引かれる。・・・ほんの少し。

 「これからしばらく歩くから。でも目的のところに着けば、今日はそこで一泊」

 「どこなの」

 「・・・たいして知られていない町だから、名前を言っても多分知らないわ。ごく普通の港町よ」

 そうして、途中で休憩を取りながら、半日近い旅路を急ぐ。

 レイは私に何も言わなかった。彼女の代わりになる人形達を殺したのは私なのに。けれど、何も聞かない彼女の性格は、下手に詮索されたり、心配されるよりはずっと、私自身にはかえって良かった。

 レイも列車の中で一通りの事を言った他は口をつぐんでいた。彼女の心中を推し量る事はできない。それは、彼女が人間だからという訳では、必ずしもない。

 他者と言うものは、所詮、分からないものなのだ。私にいたっては、自分自身ですら分かっていない。

 今の私にできる事は、レイが私といる事で気分を悪くしないよう、私なりに行動するだけだ。

 そんなことを考えている内に、道は波止場へと続いていた。船の音が辺りを騒がせる。

 特に、どこに泊まろうと決めていたわけでもないので、目についた旅館に上がり込んだ。幸い、そこには空き室があった。二人用の部屋を一つ確保する。

 「海沿いの部屋ですからね。とても景色がきれいですよ」

 旅館の方がそう言って案内してくれた部屋は二階の八畳ほどの和室で、確かに窓の向こうに海が見えた。

 おかみさんは細々とした注意を述べた後、一礼して部屋を出ていった。開け放した窓が海風を送ってくる。午後三時二七分。何をするにしても、中途半端な時間だ。

 レイは窓縁に座って、海に浮かぶ漁船を眺めていた。その背中に、私は声をかけた。

 「夕飯までには時間があるから、少し散歩に出るわ。つきあう?」

 「・・・はい」

 音もなく立ち上がる。この子でも、退屈を感じる時はあるのだろうか。

 旅館を出てしばらくしたところで、レイが話しかけてきた。

 「見つからないの」

 「逃げることが目的でないもの。いいのよ」

 本当に逃げたいのなら、こんな所で止まってはいないし、それ以前に、私たち二人の姿が目立たないようにするだろう。私たちの髪や目の色は目立ちすぎる。

 レイは私ではなく、私の心を見ているかのように尋ねる。

 「見つけて欲しいの」

 「・・・違うわ」

 少し、ためらった理由を告げるのには、時間がかかった。

 「・・・いえ、本当は、見つけて欲しいのかもしれない。けれど、それ以上に、時間が欲しいの」

 「時間」

 「ええ。一人で考えて、一人で決着をつけられる時間が」

 道は緩やかな坂となって、青空の向こうへ続いていた。

 「誰かと考えたりはしないの」

 「無理よ。あの人にそこまでして欲しくないし、それができる人じゃないわ」

 「それがあなたの壁」

 立ち止まった。レイは帽子の影から私を見ている。

 「何でも一人でしようとする人なら、放っておいてかまわないもの。心を開かない人には、誰も心を開かない」

 「正論ね」

 自分でも、つまらない返答だったことは認める。

 坂を上りきり、そこからさらにうねる道を歩くと、左手に墓地が見えてきた。風通しの良さそうな場所で、そこからでも海が見える。

 私は入口にあったバケツをとると、水道で水を注ぎ、一つをレイに持たせ、一つは私自身が持った。

 記憶をたどって歩く。前に来た時はゲヒルンにはいる前だったから、八、九年前か。

 記憶の中のものと全く同じ位置にあった墓は、その時とまったく変わっていなかった。そんなに昔のものでもないはずなのに、相変わらず古ぼけて見える。

 「誰の墓なの」

 レイが尋ねてきた。

 「私の父の墓よ」



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