キーボードを叩く手を止め、一息ついているマヤに、あたしは紙コップのコーヒーを差し出した。一瞬、マヤの表情がこわばるが、あたしだと気付いたのか、すぐに元に戻る。
「お疲れさま。飲む?」
「あ、はい。ありがとうございます」
キーボードにこぼさないように、あたしの方を向いて飲む。こうした行動が一々もっともだ。
「どう。回復状況は」
「今晩は総出で徹夜ですが、明日中には回復させられます」
あたしは驚いた。てっきり、一週間は何もできない状態が続くのかと思ったのだ。
「さすがリツコの後輩ね。大したものだわ」
「そんな、・・・」
マヤは照れたのか、顔を赤らめたが、すぐに元の愁いを帯びた顔に戻った。半分ほど残っていて、手の中で冷めていくコーヒーに口をつけずに見つめている。
「心配ないわよ。リツコもレイも、無事に帰ってくるから」
「はい」
そう言って、また黙り込む。
「まったく、こんないい後輩を泣かせるなんて、リツコも罪な女なものね」
「茶化さないで下さい」
「茶化してなんかいないわよ。うらやましいだけ。あたしも女の子の後輩が欲しかったなって、思うときがあるから。日向君には不満はないけれど、やっぱり言いにくいことってあるものよ」
「そうですか。・・・」
マヤはまた黙り込むと、コーヒーを飲み干して、突然言った。
「先輩が妊娠していたって、本当ですか」
来たか、と思った。
「ええ」
「やっぱり、・・・」
マヤの方が震えていたのに、言葉も出なかった。
「最初に聞いたときは、信じられなかったのに、・・・」
「・・・そっか。噂になっていたものね。自然と耳にはいるか」
ふと見たマヤの顔が、涙も綺麗に拭かれた、毅然としたものになっていた。
「教えて下さい。相手の男は誰なんですか」
「それを聞いてどうするの」
「どうするじゃないです。先輩、すごくつらそうでした。それなのに、側にいてあげないなんて、ひどすぎます」
確かに普通はそうだ。しかしあの二人の場合、事情がものすごくややこしいのだ。今や、互いを仇とさえ思っているだろう節さえあった。
それらの事情をすべて打ち明けたところで、マヤがその怒りを収めるとは思えない。むしろ、一直線に司令の所へ怒鳴り込みに行くかもしれない。・・・見てみたい気もする。
「何をにやけているんですか!」
「に、にやけてなんかいないわよ、いやね」
そう弁解するあたしの頭の中では、司令がマヤに往復ビンタを何百発も食らい、顔が血ダルマになっていた。
わざとらしいが、ひとつ咳をする。
「とにかく、冷たいようだけれど、あたしの口からじゃ、父親が誰なのかは言えない。リツコが帰って来た時に、本人が自分から話してくれるのを待ちなさい。よけいな詮索とお節介は、かえってリツコのためにならないから」
「私、お節介で心配しているんじゃありません」
「分かってる。でもね、この事はリツコと、リツコの男との問題であって、第三者が介入する余地はないの。あたしたちに出来ることは、同僚としてリツコの帰りを待つ事と、リツコが何か助けを求めてきたら、力になってあげる事だけよ」
「・・・冷たいんですね、葛城さん」
「かもね」
あたしは立ち上がった。マヤも止めない。
彼女のように、積極的に人に干渉するという性格が、呆れもするし、うらやましくもある。あたしには、他人と一緒に傷ついてまで誰かを助けたいという気持ちは起きない。自分の傷だけで精一杯だ。それを、皆が冷たいと言うのならばその通りだと思う。
立ち止まり、ポケットに手を入れると、小さなチップを取り出した。しばらく手のひらに載せて見つめていたが、すぐにポケットに入れ直す。
このまま突き進むしかないのなら、そうするしかない。
家に戻ると、シンジ君は夕飯を作ったまま、奥に引っ込んでいた。
「シンジ君」
声をかけると、たっぷり五秒後に、「はい」と返事が来る。
「夕飯の前に、聞いて欲しい事があるのよ。こっちへ来て」
シンジ君はあたしの声の調子に何かを感じ取ったのだろうか。すぐに来てくれた。
「これを受け取って」
あたしはシンジ君の手を取ると、一枚のフロッピーを掴ませた。
「あたしたちのしてきた事の意味よ。もうすぐ全て終わりになるから、それまでに知って欲しいの」
シンジ君は黙ってフロッピーを見ていたが、すぐに戸惑った表情を見せた。
「でも、これって、機密事項じゃ・・・」
「ええ。こんなものを勝手に引き出した事がばれたら、あたしも確実にクビね。でも、あたしたちは納得いかない事をそのままにしていられるほど、部品に徹せる訳がないわ。せめて、自分を動かしていたものが何なのか、知りたいじゃないの」
シンジ君は顔を上げた。まっすぐにあたしの目を見て言う。
「いいんです、ミサトさん。僕にはもう、必要ありません」
「・・・何がいい、と言うの?」
「これを見ても、僕にとっては何も変わらないんです。綾波はもう別の綾波だし、アスカはああなってしまったし、トウジやケンスケとは別れてしまったし。僕が知りたいのはもっと別の事です。後ろを見たまま、前に進めるとは思えない」
あたしはうつむいた。深く深呼吸をし、息を吐き出すようにして言う。
「進めるわよ」
「え?」
「ここに立派な見本がいるもの」
今度は、あたしが彼の目をまっすぐに見る番だった。
「あたしは過去に囚われすぎている。自分でも気付いていた。でもね、どんな過去でも、それを忘れては、どこへも進めない気がしたの。もちろん、あなたの答えも立派に答えの一つだし、無下に否定しようとは思わない。でも、後ろを向いたままでも前に進めるって事は、忘れないでほしいの」
「・・・ミサトさん・・・?」
あたしは微笑んで、シンジ君を見つめた。シンジ君はどこか呆然としている。
「それはあなたに預けるわ。いつか、見たくなった時に見て。できれば、アスカと一緒にね」
「ミサトさん、・・・ミサトさんまで、どこかへ行く気なの」
「違うわ」
あたしはすぐに否定した。
「行って、そして帰って来るのよ。そのために、家があるのよ。帰るときの目印として」
「葛城さん」
呼び止められて、心の底から驚いた。何しろ、誰にも見つからないように移動している最中だったので。
声をかけられた方を見て・・・見るまでもないことだったけれど・・・、ほっと一息ついた。
「日向君か」
「日向君か、はないじゃないですか」
苦笑しながら、日向君は近付いてきた。側まで来ると、小声で一言、
「お供しますよ」
「・・・行き先は分かっているの」
「葛城さんには何度か危ない橋を渡らせていただきましたから。大体、察しはついています」
「ばれたら、クビどころじゃないのよ」
「それは、これまでしてきた事と同じでしょう。なら、平気ですよ」
彼の言葉は、シンジ君に別れを告げてきた今では、何よりも頼もしく思えた。
「ありがとう。あたしは、日向君みたいな部下を持てて、本当にうれしい」
進もうとしたところへ、言葉がかかった。
「部下でしか・・・ないんですか」
立ち止まった。どういう事、と愚問を発する気はない。
「すみません、こんな時に、こんな事を言って」
そう言った彼の顔は、もう笑ってなんかいなかった。
「でも、どうしても言いたかった。あなたが加持さんの事をまだ忘れられないのは分かっています。今のあなたにつけ込もうとか、そういう気はまったくありません。ただ、僕の事も知って欲しかった。僕があなたを、どう思っているのか」
私は彼から顔を背けた。
「しばらく、考えさせて」
「はい」
そして、あたしたちは何事もなかったかのように歩き出した。
風がふいていた。気持のよい風だ。
「どうしても、いま、ここへ来たかったの」
傍らのレイが、私の言葉をどう受け止めているのか、分からなかった。
「父の骨は、ここにあるわ。・・・もう一人の人と一緒に」
私が聞いた話はこうである。
母は現役で入った大学で、一人の講師と知り合った。彼女は一目で彼に惹かれたが、彼は既婚者だった。しかし、彼女は彼を手に入れようとして、そして勝った。
彼女はその勝利に酔った。子供も生まれ、全ては平穏なまま幕を閉じるかと思われた。
彼が、とある女と心中したのは、その時だった。
恐らく、父は気が弱かったくせに、それを見せるまいとして、無理が生じていたのだろう。そのほころびを感じ取った女達が彼に惹かれた。そして彼は自分でもそうと気付くこともなく、彼女たちの保護欲につけ込んだのかもしれない。
母は私を自分の母(つまり私の祖母)の元にあずけ、自分は研究に没頭するようになった。私は母と直接会うこともほとんどなく、しかしまめに手紙で互いの近況を報告していた。
かつて、私は母を父に捨てられた、哀れな人だと思い込んでいた。自分だけは母の味方でいようとしていた。
けれど、気がついたのだ。母の、私には見せない別の顔が、淡々とつづられている文章の間に、ひとつも書き損じのない文字の間に、にじみ出ていることを。
私は文面には出さないようにしながら、しかし母に対して、妙にいらついた感情を抱いた。今思えば、それは母が私に対して隠し事をしているような気になって、それで怒っていた、実に幼い感情だった。
私は母が好きだった。私を遠くから気遣ってくれるところも、科学者としての権威と栄誉を欲しいままにしているところも。しかし、私は母のもうひとつの顔が嫌いだった。
高校生の時、私は母に会いに行って、そこで偶然にも母が誰にその顔を見せているのかを知った。その頃には、母のその顔は文面にも現れていて、それは私を一人前に認め始めた兆候でもあり、しかし、それは私には何よりも嫌なことだった。
男が嫌いだった。男にからみつく女も嫌いだった。
結局、私は、自分の中にもそうした顔があることに気づかないで、それだけならまだしも、そうした顔を見せる人間を、見せたというだけで拒絶する、想像力の欠落した子供だったのだ。
(まるで、昔の自分を見ているようで気になった)
あの日、私に辛酸をなめさせた男は、それだけは本音だったのだろう一言を漏らした。私は自分の知らなかった一面を思い知らされ、そして彼の一言が引き起こした錯覚に溺れ込んだ。
そしてある日、自分がつかんでいたものが幻だったことに気づいた。
「・・・どうしてそんなことを、私にいうの」
長い話が終わらせた時、レイがそう言った。
「そうね。あなたの入れ物を壊したとき、私の中で、あなたに対する、暗い感情は消えたわ。勝手すぎると言われそうだけれど、私は一人残ったあなたには、あなたの道を選んで欲しい。・・・そうしてもらう前に、この場所で、私のことを、少し知って欲しかっただけ」
一通り手入れの終わった墓の前で手を合わせ、そして立ち上がった。
「もう、決着をつけなければならない感情は、ただ一つだけよ。・・・今の内なら、北へ逃げれば追っ手をまける確率が高いわ。今夜のうちに発ちなさい」
「あなたはどうするの」
「ここで、追っ手を待つわ。私は逃げたかったんじゃなくって、ここで気持ちの整理をしたかっただけだもの。あの人から逃げたいあなたを巻き込むわけにはいかない」
「私も戻る」
少なからず、私は驚いた。
「どうして・・・?」
「私も、しておきたいことがあったから」
レイの目に、何らかの感情が宿っているように見えたのは、気のせいだろうか。
「それに、あの場所を出る前に、あなたの事を知りたかった。あなたと私、何もかも違っているけれど、・・・」
彼女が言いたかった事が、私にも分かった気がした。
もう少し違う立場で出会っていたら、いや、せめてもう少し話し合える機会があれば。
私達は、今の様にはなっていなかったかもしれない。
あれから数日の事は言うまい。
ただ、私達は諜報部に見つかる間でもなく、自分からネルフに戻って行った。レイは私から引き離され、私は悪阻が大分軽くなっていたので、個室を与えられた。
監禁には変わりないが、光り採りの窓もある上、部屋から出る以外はほとんどの自由が許されたため、以前とは比べ物にならないぐらいに快適な環境だった。それに、医師の診断によると、子供は順調に育っているという。
私は待っていた。何を待っているのかも定かでないまま、明らかに待っていた。
“その時”が来ることを。
そして、闇が訪れた。
ミサトの仕業だ、と、何故かそう思った。
予感は確信に変わった。牢の扉が開き、いるはずの監視役がいなかったのだ。
私は急いで外へ出た。牢の外は不気味なほど誰もいない。まるで、私だけが世界に取り残されたようだ。そう思って、自分の妄想に苦笑した。そんなことがあり得るはずもない。
気になったのはアスカのことだった。集中治療室の装置は、この停電で全て機能を停止させているはずだ。呼吸ぐらいはするだろうが、それでは、・・・
他に、治療を受けている人間はいない。おそらく、ここでアスカを見過ごせば、彼女はここに取り残されることになる。
牢の中に閉じこめられていたせいか、この時、私は予感していた。もう、二度とここに光が灯ることはないかもしれない、と。
「リツコさん!」
私は自分の目を疑った。幻視でもない限り、そこにいるのは、懐中電灯を持っているシンジ君ではないか。
「シンジ君、どうしてここにいるの」
「アスカの所へ行こうと思ったら、こうなったので。リツコさんこそ、どうしてここに?」
「私も、アスカが心配でここまで来たのよ」
シンジ君の目が丸くなった。
「リツコさんが、・・・アスカの所へ?」
「ええ」
私は苦笑した。自分でも、似合わないことをしていると思う。
「あの子が自分だけの世界に閉じこもったのは、私にも責任はあるわ。私にとって、あの子はただの駒であり、利用する道具だった。ちゃんと、一人の人間として見ていなかったことに、あの子は気づいていたのかもしれない」
「でも、リツコさんは」
「身重でも、たまには動かないと余計、体に毒なのよ。覚えておきなさい」
シンジ君は神妙に頷いた後、「あの、・・・」と、言いにくそうに告げた。
「ミサトさんが、日向さんと消えてしまったんです」
「ミサトが!?」
先程から、自分の器官が狂っている気がした。今度は耳だ。でも、彼が告げた事については、すぐに合点がいった。
ミサトにとって、それは何よりも大切なのだろう。私には止める権利などない。日向君が着いていったのは、私の予想内ではある。
「帰ってきたら、私がシンジ君の分も怒っておくから、シンジ君はミサトが帰ってきたら、何も聞かずに迎えてあげて」
「分かりました。それと、綾波と、・・・父さんは、どこに」
「分からないわ。この停電は、誰にとっても突然の事だったもの。レイはまだ、自宅にいるかもしれない」
もう一人の方は、言う間でもなくどこにいるのか分からない。
「違うんです。リツコさんと帰ってきてから、綾波の姿が見えないんです」
シンジ君は、毅然としていった。
「前は、僕が避けていたこともあるんですが、たまにしか会えなくて、でも全く会わないことはなかったんです。こんなことは初めてで、・・・リツコさん、ひょっとして綾波は・・・」
「大丈夫」
私は頷いた。それだけは確信していた。
「あの人は、レイに危害を加えたりしない。絶対と言いきれるものが数少ない中の絶対よ、それは」
「じゃあ、綾波は・・・」
「あなたになら分かるはずよ」
シンジ君はしばらく考えていたが、やがて閃いたようだった。
「あの、リツコさんが見せてくれた」
「そう、セントラルドグマ。レイは、あそこにいるのよ。あの人も、おそらくはそこにいるか、そこへ行くはず」
そこで言葉を切って、目の前にいる少年を見た。その目に、もはや、初めて見た時の虚勢は、彼にはない。
「シンジ君。アスカはあなたに任せます。急いで、ここから脱出しなさい」
「じゃあ、リツコさんは」
「私は、セントラルドグマへ向かうわ」
「無茶だ」
そう、無茶だ。しかし。
「私が行かなければならないの。この子のことも、ちゃんと話し合っていないし」
下腹部をなでながら言うと、シンジ君が「でも」と言いかけたので、手で止めた。
「必ず、連れて帰るわ。二人ともね。・・・それに、アスカは私より、あなたを待っている」
しばらく、無言で見つめ合っていたが、やがてシンジ君が頭を下げた。
「綾波と、父さんの事、頼みます。さっき、気づいたんです。本当は、今の綾波と話をしたかったのと、・・・父さんに、喧嘩になっても、もう二度と会えなくなってもいいから、本当に言いたいことだけを言いたかったことを。そうすれば、今のようにはならなかったかもしれない」
「誰にだって、最後の一秒まで、いえ、最後の一秒でも、間に合わないことはないのよ」
まさか、私が励ますとは思わなかったのだろう。最初、驚いたような顔をしていたが、やがて真面目な顔で「はい」と頷いた。
「それじゃあ、アスカを頼むわね。覚えておいて。アスカは、何か、別の苦しみを味わうぐらいなら、閉じこもった方がましだと思って、閉じこもってしまったのよ」
「はい。どうか、ご無事で。・・・あの」
「何?」
「僕、弟や妹が欲しい、と思ったことはなかったんですけれど、・・・どちらかと言えば、妹が欲しいです」
私は、今度こそ、自分の耳が壊れたのかと思った。笑って、頷いた。
「それこそ、神のみぞ知る、よ。あなたの運が良いことを願うわ」
アスカの病室に飛び込んだ時、シンジ君が、信じられない、という目で迎えてくれた。
「ミサトさん!?」
「再会の挨拶は抜きよ。アスカは」
「ここにいます。今、運ぼうとしたところです」
「良かった、無事で」
まぶたが閉じられていても、起きているのはすぐに分かった。あらゆる計測器はシンジ君の手で外されていた。
あたしはアスカを横抱きにして抱えた。軽い。
「アスカ・・・」
「うるさい」
心臓が一つ、大きく鳴った。
シンジ君の方を見ると、目を丸くしたまま、ものすごい勢いで首を横に振った。恐る恐る、抱えている少女の顔を覗いてみる。
予備電源の薄暗い明りの中で、ほんのわずかにそのまぶたが開いていた。
「・・・アスカ・・・?」
呼びかけると、目がこちらを向き、すぐに元に戻ったのが見えた。
明らかに反応している。
「アスカ」
早く移動しよう、と思った。けれど、どうにもならなかった。視界がまたぼやけていたので。
「アスカ、僕だよ、分かる?今、アスカを抱えているのはミサトさんだよ、分かる?」
「シンジ、うるさい」
あたしの腕の中で、アスカが一つ、大きく息を吐いた。
「あんたはいつもうるさい。あたしが眠っている間、ずっとうるさかった。ママの夢を見ているときでも邪魔してきた」
目が、シンジ君のほうを向いた。微かな声だが、その言葉ははっきりと聞こえた。
「ありがとう」
それから、あたしの方に目を移した。
「ミサト、あんたもね。ちょっと見直した」
「どういたしまして」
何もかもが崩れていくのに。
何もかもが崩れていくのに、どうしてこんなに温かい気持ちになれるのだろうか。
「アスカ。これから、ここを脱出するからね。立てる?」
「やってみる」
あたしがアスカをそろそろと地面に降ろしたが、体重がかなり落ちていたアスカは、立つだけでもかなりの苦痛を伴うらしい。それでも一、二歩歩いたが、崩れてしまった。アスカは自分の足を殴りつけた。その拳も弱々しい。
「立ちたいのに、この足が」
「じゃあ、あたしが抱えるから」
アスカの手をそっと止めて、再び抱きかかえると、小声で「ごめん」と言われた。
「シンジ君、先導して」
「はい」
懐中電灯を持ったシンジ君の後に続いて、部屋を出る。本部との連絡通路の所で、「葛城さん!」と向こうから人が来た。
「良かった。三人とも無事ですか」
青葉君は、シンジ君とアスカに笑いかけると、私には笑いを打ち消して言った。
「日向さんの先導で、職員は皆退避しました。後、所在の分からないのは、綾波レイと、赤木博士、そして碇司令です」
「副司令は」
「日向さんから説明を受けて、先導の指揮を取られています」
「ミサトさん」
シンジ君が、申し訳なさそうに言った。
「ごめんなさい。リツコさんは、綾波と父さんを捜しに、綾波のいるところまで」
「セントラルドグマね」
シンジ君が頷いたのを見て、あたしはアスカを青葉君に預けた。
「ごめん。青葉君、アスカをお願い。あたしはリツコの所へ行く」
「どうして」
問いが、腕の中のアスカから出た。
「あたしより、リツコや優等生のほうが大事なの」
「やっておきたいことがあるの。正念場なのよ、分かって」
「分かりたくない」
私は青葉君の腕に抱えられて、不貞腐れているアスカの前髪を上げると、その額にそっと唇で触れた。
顔を上げると、アスカの顔は余計に不貞腐れていた。
「似合わない」
「分かっているわよ」
「アスカ」
シンジ君が、助け船を出してくれた。
「帰ったら、ミサトさんと話す機会はいくらでもあるよ」
「じゃ、行こうか、シンジ君」
青葉君がさっさと先に進もうとしたので、アスカは「ちょっと待ってよ」と抗議したが、青葉君は取り合わない。
「では、この『患者』を速やかに避難させますので。後どれぐらいですか」
「二時間よ」
「そうですか。どうかご無事で」
アスカはあたしを止められる力が自分にないことを悟ったようだ。今はまだ。
代わりにあたしに向かって、はっきりと、
「ミサト、死ぬ気じゃないでしょうね」
そう言ったきり、黙った。
シンジ君も、こちらを向いて、不安そうな顔をしている。
あたしはゆっくりを首を横に振った。
「違うわ。だから行って」
光が遠ざかっていく。もう、誰も何も言わなかった。
室温が上昇しつつあった。電源が切られているのだから仕方が無い。
そう言えば、前にもこんなことがあった事を思い出して苦笑しつつ、懐中電灯を片手に先に進む。
と、セントラルドグマへ向かう通路の前に、人の影が見えた。
「マヤ」
声をかけると、こちらに首を向けたのが見えた。
「先輩・・・」
通路の壁にもたれて、憔悴しきった顔のマヤは、かすかに微笑んで見せる。
「やはり、ここへいらしたんですね」
私は答えなかった。するとマヤは壁から離れ、まっすぐにこちらを見る。
「後二時間弱で、ジオフロントは消滅するそうです。それまでに脱出しないと」
「なら、通して、マヤ。そういう事態なら余計に、早急に済ませなければならない事があるから」
マヤは私の顔を見据えて、首を横に振った。
「先輩が死にます。通しません」
「通しなさい」
「嫌です」
ついに私は怒鳴った。
「人が死ぬのよ」
「先輩を捨てた人じゃないですか」
マヤがしまった、というような顔になった。私も同じ顔をしていたかもしれない。
少しの間流れた沈黙を、私は破った。
「・・・知っていたの」
「先輩が妊娠したのを噂で聞いて、葛城さんに尋ねたんです。そうしたら、葛城さんが相手について変なぐらいに口ごもるので、多分ネルフの人間だろうと思って。とすると、先輩と接触しやすかった人は一人しかいませんから」
「そう」
としか言いようが無い。ゆっくりとため息をついた。
「今、あの人を止めないと、人類が滅亡したも同じなのよ。たぶん、ジオフロントの消滅はそれを食い止めるためのものでしょうけれど、私はあの人にこのまま死んで欲しくない」
「どうしてですか。司令は、先輩を好きじゃないから、捨てたんでしょう。死ぬのなら勝手に死なせたらいいじゃないですか」
「あの人が、そうして死んだ女だけ見たまま死んでいくからよ」
私はもう一度、ゆっくりと息を吐いた。
「ずっとそうだったのよ。あの人は、私の事なんか見ていなかった。私の母も、私も、レイも、自分の息子でさえ見ていなかった。見ていたのは自分の死んだ女だけ。あの人は、永遠に自分の女だけを見ていられる夢にすがりついたのよ。私があの男にけがされ、それでもひかれたのは、その執着があったから。あの人以上に、自分の狂気にとりつかれる人間などいない。いる訳がないわ。でも、このまま、あの女だけを見て死んでいかれたら、私はどうなるというの。その女とのことは許したいわ。私がひかれたのは彼女への執着心だから。でも、忘れ去られるのは嫌。かすかにでもいい、あの人の記憶の隅にいつまでもとどまっている存在でいたいし、触れ合わなくてもいいからそばにいさせて欲しい。だから欲しいのは子どもじゃないわ。もっと違うものよ」
マヤは私の言葉が進むにつれて、段々と目が潤んできたが、やがてうつむいて、口を開いた。
「私が先輩にひかれたのは、だからなのかもしれません」
「マヤ」
「先輩がすごく好きでした。どんな人よりも尊敬していましたし、先輩は私の憧れでした。もし私が男だったり、逆に先輩が男だったりしたら、話はずっと簡単だったと思います。先輩に告白して、ひょっとしたら何度か寝て、それはそれで気持ちの整理がついたと思います。でも先輩も私も女ですから、どうすれば先輩に自分の気持ちを伝えられるのか分からなかったし、自分の気持ちを正確に伝えられる自信もありませんでした。気持ちが強すぎて、一緒にいたいとか寝たいとかでなしに、私は先輩になりたくなっていたんです。変身とかではありません。抽象的な意味でなしに、先輩と同一の物体になりたかった。・・・でも、それは誰でも不可能なことだから、だから、せめて先輩の邪魔にならないように頑張って着いて行こうと思ったんです。・・・先輩、好きだからといって、何かを要求したりしません。ただ、これからも側で一緒に仕事をさせてください。それとも、先輩は私がこういう目で見ているのは嫌ですか」
私は俯いた。同性に告白されたときの女の心境は、同じような事態にあった男よりは落ち着いたものかもしれない。本当に駄目な人もいるだろうが、少なくとも私は、相手の気持ちに多少は同調できる。その分、返事も真剣に考えられる。
だから、私はマヤを抱きしめるしかできなかった。
「ごめんなさい、マヤ」
「先輩・・・」
「私を許して」
あなたを愛せたら良かったのに。それは言わずとも伝わっていたようだ。
「先輩、・・・先輩は優しすぎます」
マヤの声は震えている。
ついに、腕を回そうとはしてこなかった。
エレベーターは停止していたので、セントラルドグマ最深部へ行くのはとてつもない困難だった。
ふと、腹の子が自己主張を始めたりする。必死で吐き気をこらえる。お腹を刺すって、言葉を口に出してみる。
「ごめんなさい、あなたを苦しめてばかりいて」
最近、自分が母になりつつあるのを感じる。それとも、自分の中の母性が目覚めつつあるのだろうか。この子と出会ったことで、自分は随分と変わったものだと思う。
(母さんも、こんな気持ちを味わったことがあったのかしら)
聞いてみたいと思った。不思議なものだ。自分が人の母になりつつあるというのに、いまだに母に甘えたい気分でいる。母とのことだけではない。あの人とも、友人達とも、部下とも、どんなに表面上は形を変えても、根底で抱いている気持ちは同じだ。
唐突に閃いた。母は、MAGIを、自分の研究の最終目標などに置いていなかった。人格を持ったコンピューターとしては、MAGIは出発点にしか過ぎなかったのだ。
確かに、母の心は、母の部分、科学者の部分、そして女の部分、つまり情と理と欲に分かれるだろう。しかし、今のままでは、MAGIは物を考えるだけで、変化しようとしない、いわば羊水に浸かったままの赤子だ。そこで完結してしまって、先に進めない。
MAGIに足らないもの。それは、外部との接触による、変化。つまり、成長だ。
ならば、来るべき終末まで進化を続ける、未完成の機械じかけの神。そういうコンピューターが創れる物だろうか。
いや、創らなければならないのだろう。それは、意識的にか無意識にかは永久に分からないけれど、母が私に残してくれた、宿題なのだから。
思考を中断した。ついに、最深部に到達したのだ。
足が速まる。全身が苦しい。息ができない。
最後の扉を目眩の中開ける。
いた。
「碇司令」
あの人は、白い、十字架に張り付けられた巨人の前で、レイと向かい合っていた。二人は、まるで鏡像のように、同時にこちらを向く。
「レイ、行かないで。・・・その人を連れていかないで」
「私を止めるつもりか」
冷淡な声に、私は一も二もなく頷いた。
「ええ、ええ、そのつもりです。私には、世界のためとか、母のためとか、腹の中の子供のためとか、レイのためとか、そういう大義名分などいりません。ただ、自分のエゴだけで、ここに来ました。ずっとそうしてきたから。あなたと出会う前も、出会った後も」
それは、ずっと言いたかったことだ。言えば良かった。そうすれば、楽になれたのに。頑ななだけの壁なんて、誇りではない。ただの意固地だ。
「あなたがそのまま行ってしまうなんて、許さない。裏切った責任を取れとは言わない。ただ、ユイさんの事がどうしても忘れられないから、自分だけユイさんと同じように進化しようだなんて気持ち、理屈がどんなに通っていても、自分一人だけ思いをとげるなんて、私は納得しない」
私たちの距離は、二十メートルほどだったろうか。
「何を言って欲しい」
その言葉に、虚を突かれた。
「え」
近づいてくる。一歩ずつ、距離が縮まる。
「失望した、はもう言ったな。最初から愛してなどいない、ただの遊びだった、か。私のことなど忘れてくれ、一人でも生きていけるはずだ、か。すべては私が悪かった、許してくれ、か。それとも、」
腕を取り、無理矢理胸元に抱き寄せてきた。耳元でささやいてくる。
「愛している。これからもだ」
「違う」
哀しかった。こんなに側にいるのに、私たちはどこまでもお互いを分かり合ってながら、本当に分かり合ったことなどない。それが哀しい。
「もうやめて。私はそんな言葉なんていらない。子供もいらない。富も、地位もいらない。あなたの命でさえもいらない。周りにどんなに罵られてもいい、罰せられてもいいから」
こんなに哀しいのに、どうして涙は出ないのだろう。
「どこにも行かないで」
言えた。
「それはできない」
目の前が暗くなる、何てことはなかった。足もしっかりとしている。
どうして。
「こういう人間を選んだのは君だ。そして私はユイを選んでいた。君と出会う遥か前にだ。そしてユイは今も私の側にいるし、今も私を呼んでいる」
「なら、どうして母を抱いたのよ。私を無理矢理抱いたのよ。母は自分から望んでそうしたかもしれないけれど、私は少なくとも最初は望んでそうしたわけじゃなかった。それなのに」
「女は、腕の中に置かなければ、すぐに裏切る」
どうして。
どうして、私は震えもしないの。
「それ・・・だけ?」
「ああ」
私は渾身の力で、身を引き離した。そのままサングラスに手をのばして、あらわれた眼球を見上げる。
「本当に?」
返事はない。
「何の感情も抱いてさえ、いないの?」
サングラスを取り返されて、突き放された。巨人の足元にいる、白い、小さな少女の元へ行く。
レイは黙ったまま、こちらを見ている。そこに表情はない。
「碇司令。レイ」
答えはずっと分かっていた。それでも、扉を叩き続ける勇気がなかった。
しつこい、と切られるのが怖かったから。
それでも、扉を叩きたかった。叩き壊して、こじ開ける結果になっても。
背後で、扉の開く気配がした。
「レイ、司令の言うことを聞かないで」
それは聞き知った、けれどあまりに久しぶりに聞く声だった。
「ミサト」
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