数年来の友人と感激の再会を喜び合う暇はなかった。すぐに彼女の脇を通り過ぎて、司令とレイの元へ向かう。万が一のために幾分距離は開けて立ち止まった。
「お久しぶりです、司令。一週間ぶりですか」
司令は何の表情も浮かべることなく言った。
「父の敵をとったか」
「ご明察、恐れ入ります。ゼーレはもはや存在しません。委員会の人間が全員、原因不明の爆破事故により、行方不明になりましたから」
「ミサト・・・」
リツコが驚いたような声をあげる。そちらに軽く頷くと、すぐに司令の方に向き直った。
「碇司令。父の、そして加持の意志を貫くためには、後はあなたを止めるだけです。あなたはご自分の計画を成し遂げようとなさっている。しかし、それは間違いです。やめてください」
「やめる気はない」
「いいえ。あなたは間違っています。あなたのしていることは皆を侮蔑しています。私も、シンジ君も、リツコも、レイも、あなた自身も、シンジ君のお母さんでさえも!」
「・・・どういう事だ」
話にのってきた。あたしは心を落ち着けて、ゆっくりと話を始める。
「失礼なこととは思いますが、様々な方面から、司令と碇ユイさんとの話を聞かせていただきました。以降の話は、私の推測に過ぎないことは認めますが、どうかお聞きください。
「あなたが思い描いていらっしゃる碇ユイは、幻でしかない、いえ、彼女だけじゃなく、あなたはあなた自身でさえ、思い違いをなさっています。
「あなたは、おそらくご自身の野心のために、碇の姓に入った、と思われていたはずです。それが、彼女を失ったとき、初めて彼女を必要としていた自分に気付かれた。
「あなたは母を得たかったのです。・・・いえ、母という言い方は語弊がありますね。あなたはご自分の全存在を、安心して委ねられる存在を求めていた。まるで母性そのものであるかのような。
「それがおかしいとか、変だとかは思いません。私にも、たぶん他の誰にでも、そのような面はありますから。あなたの悲劇は、逆に、自分が相手を甘えさせることに、少しの喜びも見いだせなかったことにあります。どんな人間でも、あなたとの相性は合わなかったはずです。相手を自分に甘えさせることのみに喜びを見いだせる存在など、まずいませんから。
「そして、最大の悲劇は、碇ユイこそが、ご自分の望んでいらっしゃった存在である、と今まで、ずっと思い込まれていたことです。確かに、彼女はあなたにとって、最も相性が良かったでしょう。
「しかし、それは彼女にとって喜びではありませんでした。そうでなかったら、彼女は自分の喜びを手放すことなく、あなたの側にずっといたことでしょう。しかしそうではなかった。それは何故か?
「考えられる答えは一つしかありません。つまり、碇ユイとあなたは、根底は全く同じ、人に全存在を委ねることにより喜びを得る人だったのです。そして、彼女は自分が最も欲する存在を、自ら演じることで、欲望を満たしていたのです」
そこで言葉を切ると、広い空間が静まり返った。
「・・・馬鹿、な」
その声に、先程までは全くなかった感情が入っている。あたしの言葉が司令の精神に揺さぶりをかけている証拠だ。
さらに畳みかける。
「だって、そうじゃないですか。本当に相手を喜ばせることに快楽を見出している人間が、その当の相手の・・・しかもその内の一人は自分の夫、一時は他ならない自分のこどもですよ?・・・目の前で、自殺に近い行為を働く、なんて真似ができますか?あなたがどんなに望んでも、彼女はあなたのところに行きませんよ。彼女の望みは、そうして、あなたが永遠に苦しむ姿を眺めることなんですから。そうして、エヴァという命の器の中に自分を投げ出していること。彼女は、完全なる母を手に入れたんです。そして自分も母となった。・・・人類の母に」
「嘘だ」
その声は、司令の声とは思えぬ程、あまりにもうつろだった。
「うそだ」
彼は、ふらつきさえしながらレイの側まで行くと、彼女にすがりついた。
「レイ。つれていってくれ。私を、ユイの元へ。レイ」
「いや」
レイははっきりと言った。冷たすぎるぐらいの目で司令を見ている。
「私はあなたの腕の中にいない。いても同じ。それにあなたは誰も腕の中になど入れていない」
後方へ下がると、司令の腕からあっさりと抜けた。
「いえ。一人だけいた。でも、その人ももういない」
「レイ・・・?」
無視して、巨人に向き直った。数歩、歩み寄る。
「ありがとう」
まるで巨人は、彼女の言葉に耳を傾けているかのように首を傾けていた。錯覚だけれど。
「でも、もういいの」
けれど、今、微かに頷いたように見えたのは、幻だろうか。・・・
次の瞬間、巨人の首が前に傾き、その両腕がもげた。
「レイ!」
あたしはレイの元へ駆け寄ると、その腕を引っ張った。リツコはその場に膝をついていた司令の元へ行き、立ち上がらせていた。
巨人の体は、今まで時間を忘れていたかのように一気に腐り落ち、あたしたちはそのどろついた腐肉から全力で逃げ出した。ホラー映画に出てくるゾンビのように、腐肉を撒き散らしつつ追いかけてこないことだけでもありがたい。
レイはあたしたちと逃げることに素直に従ってくれたので、途中でリツコにレイを任せて、こちらは立つことさえできない司令を担いだ。腐肉漬けの運命から、もう少しで逃れられる。
(水もしたたるいい女、というのは俺の人生でも何人か見てきたが、腐肉もしたたるいい女、というのはお前ぐらいだよ、葛城)
ふと、加持の間抜け顔が頭の中に浮かんで、絶対に腐肉に浸からずに帰ってみせる、と、余計に足に気合いが入った。
足元が揺れる。もうすぐ、ネルフはその存在を消す。
第三新東京市も、エヴァも、MAGIも、すべてを飲み込んで。
感傷に浸るのはやめた。消したのはあたしだ。
そして、今までのあたし、ずっと後ろを向いてきたあたしも消える。
「もう少しよ」
出口が見える。あたしたちはそこへ向かって走り抜けた。
闇の中にいた。けれど、完全な闇ではなかった。
空には星が瞬き、月が輝いている。この世には完全な光などないように、完全な闇などない。そう思えても何の感情も湧かない。
第三新東京市は、そして母さんは、水の底に沈んでいた。私たちはたたずんで、それを眺めている。
「碇はまだ、目を覚まさないのかね」
冬月副司令がそう声をかけてきた。私は木の幹にもたれかかっている人を見下ろす。その瞼はまだ閉ざされていた。
側にいたミサトがやってきて、副司令に頭を下げた。
「ありがとうございました、副司令。シンジ君のお母さんのこと、いろいろと聞かせていただいて」
「いいんだ」
副司令は首を横に振って、そういった。少し憐憫の情を浮かべて。
「私は、ずっと分かっていた事を、そのまま君に言っただけだからな」
長年付き添ってきた男を、いたわるようにして見下ろした。
「たぶん、碇自身も、本当は分かっていたことだ。私などより遥かに、彼女に近い人間だったのだから」
そうして、間もなく自衛隊が救助に来ることを告げて、他の所へ向かった。
副司令が場を去ってからも、ミサトはこの場を離れようとしなかった。
「リツコ。これからどうするつもり」
「・・・分からない」
私はそっと、目の前の人の肩に腕を回した。
「分かっていることは、もう、今までのようにはいられない、という事よ」
言いながら、自分の醜いエゴと必死で戦っていた。それでも、そのささやきは頭から離れない。
(このまま目覚めなければ、この人は永遠に私だけのものになる)
首を振った。あり得るはずがない。この苦しみはもうすぐ終わる。
そして、それで最後だ。
つと、ふくらみかけた腹に、その感触をよく知っている手があった。
「もう、ふくらみはじめているんだな」
「・・・碇司令」
逃げる途中でサングラスを落とした司令は、私がこれまでに見たことがなかったぐらい、優しい目を向け、笑みさえ浮かべていた。
「不思議なものだ。俺達の子がいるなんて」
「ええ」
「男の子か、女の子か。君が無事に、健康な子を産んでくれればどちらでもいいが」
いつにない言葉は、どこかに違和感があった。尋ねてはいけない。何かがそうささやく。
それでも、尋ねずにはいられなかった。
「本当に、そう思ってくれているの」
「当たり前だ。名前も、もう決めてある。男の子だったらシンジ、女の子だったらレイだ。なあ、どう思う」
楽しそうに、その口が動いた。
「ユイ」
ミサトがとっさに支えてくれなかったら、倒れていただろう。
「大丈夫か、ユイ。すみません、私の家内がご迷惑をおかけして」
まるで、見知らぬ人間のように、ミサトにそう呼びかけている。
「碇司令、・・・私はユイじゃない、赤木リツコよ」
「何を言っているんだ。赤木君のお嬢さんは君より遥かに年下だ。そんな風に髪を染めて、俺が驚くと思ったのか。おい、どうしたんだ、ユイ。おい」
私は再び、この人にしがみつきながら、何度も心の中で叫んだ。
夢なら覚めて。
夢なら覚めて!
夢なら!
そこは、お父さんの故郷の、海沿いの温かな町だそうだ。
「つかの間のお別れね」
大分お腹が目立ってきたリツコは、トランクを片手にそういった。
第三新東京市の側の町の、駅のホームにいた。とりあえず、ネルフの人間は、水没した第三新東京市から退去し、この町に仮本部を設置して、残務処理にあたっている。
ネルフを支配し続けていたゼーレは、中心たる委員会が事実上壊滅した事により、深刻な内部分裂をおこし、以前のような巨大な組織に戻ることは二度とない、と思われる。ネルフは委員会の影響が薄かった、欧米以外の地域を碇司令と冬月副司令の工作により勢力下に入れていたため、場合によっては、ゼーレに代わる世界的な組織となることも可能だったけれど、そうはならなかった。「ネルフは高潔なる精神をもってそれを拒んだのだな」と思われた皆さん、甘い。単に、世界を調理するための材料が足りなかったので、あきらめただけの話だ。つまり、資金と人材と。
その代わり、情報は山とあったので、それを保険にして、ネルフを解体する際の、職員の新たな生活を保障することにした。つまり、「私共の人間に何か不都合な事態が起こりますと、そちら様に大変具合の悪い情報が世界中に流れることと相成りますので、その旨、どうかご了承ください」と、世界中の怪しい筋の方々に知らせて回ったのである。これで、情報を握られている側は、私たちを消そうとする人間から、文字通りの命がけで守ってくれることだろう。情報を握られたもの同士で争う事もあるかもしれないが、それは私たち、とりわけシンジ君達は知る必要もない。ま、皆さん、仲がよろしくて、結構な事だ。
日本政府は第三新東京市の移転を発表し、次世代コンピューターにより管理されるという科学都市を提唱した。その次世代コンピューターの開発所にはネルフの面々が名を連ねている。もちろん開発の中心はリツコだし、資金の交渉などの政治的な面は冬月副司令、・・・今は冬月副所長・・・が請け負っている。マヤもリツコの助手として名を連ねている。あたしは何故か、都市計画の手伝いをしていたりする。普通のOLは性に合わないので、こういう仕事は気に入ってはいるが、「葛城君は物を造るより、壊す方が好きらしいな」と、この前言われた。どういう意味だ。
そして、研究所の所長の席は、空席のままだ。
「ユイ、荷物は私が運ぶ。身重の体にそれは負担になるだろう」
「大丈夫よ、心配しないで。あなたの方が倍以上持っているんだから」
「そうか?・・・」
碇司令・・・勿論、今は司令ではないが、なんとなくそう呼んでしまう・・・は、落ち着きなく、リツコの周りをうろついたり、やたらと話しかけたりしている。どこにでもある光景を見ているかのようで、おかしい。おかしすぎて、涙が出そうだ。
「父さん」
シンジ君が転校したばかりの学校の制服姿で父親の前に出ると、まるで子供にでもするかのように、しゃがみこんで、同様にしゃがみこんだシンジ君の頭を、いとおしそうになでる。
「シンジ、どうした。父さんと離れて暮らすのが、もう寂しくなったのか」
「そんな事はないよ。大丈夫だから」
「嘘をつくな。ほら、もう涙が出てきた。男が人前で泣けるのは今のうちだからな、顔が腫れるぐらいに泣いておけ」
ハンカチを取り出して、シンジ君の目頭に押し付ける。
「お姉さんの言う事をよく聞くんだぞ。もう三才になったんだからな。これからは父さんと母さんから離れる事も覚えなくてはならない」
碇司令の頭の中では、リツコはシンジ君を妊娠していた頃のユイさんに、シンジ君はユイさんがエヴァに取り込まれる直前の三才の頃の姿に、それぞれ見えているらしい。ついでに言うと、私の事は近所のお姉さんだと思っているらしい。おばさんとかおばあさんではなくて何よりだ、と思ってしまう自分が少し悲しい。
と、立ち上がった司令は私に深々と頭を下げた。
「シンジをよろしくお願いします。何分子供のため、何かとご迷惑をおかけするかもしれませんが」
「いえ、とんでもないです。家が賑やかになってくれて、私も嬉しいですから」
リツコと碇司令は、一年ほど、リツコのお父さんの故郷で静養するのだそうだ。碇司令は、自分の妻が、仕事を離れてゆっくりと子供を産みたい、という意見にあっさりと同意したそうだ。真実を知るまでには、しばらくかかるだろうけれど。
リツコは、碇司令の側にいて、ユイさんの代わりではなく、彼の心が全てを受け入れられるようになる手伝いをするのだ、という事を教えてくれた。
あたしはその間、シンジ君を引き続き預かることにした。せっかく新しい学校に転入したばかりで、一変した生活にも慣れてきたというのに、高校受験を前にして、何度も転校するのは良くない、と、シンジ君から意見を聞いた上での事だ。
アスカはまだ退院していない。精神的にも肉体的にも、まだ退院できる状態ではないのだ。一気に治る気配はなさそうだけれど、着実に快方に向かっている。元気になったら、一度ドイツの両親に会いに帰りたいと言っていた。自分の気持に決着をつけたいのだと。
何よりも、今、碇司令に言った事は嘘ではない。ペンペンも疎開先に洞木さんが連れて行ってくれているし(シンジ君やアスカの同級生達は、戻ってくる人と、戻ってこない人の半々だそうだ)、一人きりの家は、寂しすぎる。
「もう、時間のようですよ」
腕時計を見ながら青葉君がいう。かつてのネルフの面々で、非番の人間が来ていた。あたしたちは入場券を買ってホームに入った。
「検査してみたら、女の子だそうなの」
移動しながらリツコが耳打ちしてきた。
「すぐに名前が決まったわ。いえ、決められていたというべきかしら」
「決められていたって、ひょっとして」
「ええ。レイよ」
レイは今、この国にはいない。本人の希望で、南の国へ留学しに行ったのだ。シンジ君やリツコとは、メールを頻繁にやり取りしているらしい。
「レイも、ややこしい事になりそうだけれどいい、って言ってくれたの」
微笑んでお腹に手を添えるリツコを、あたしはまぶしそうに眺めた。
周りに強制されなくても、人は進化する。
「それじゃあ」
あたしは電車に乗り込んだリツコの手を握った。リツコも握り返す。
「元気でね。色々と大変だとは思うけれど」
「そっちもね。留守の間の事は任せたわ。それより、シンジ君達に迷惑をかけないように」
「相変わらず、言ってくれるわね」
「人間の本質が、そう簡単に変わると思うの」
「とんでもない」
へらず口を叩きながらも、お互い、笑って離れた。扉が閉まり、電車が動き出す。
皆で電車が見えなくなるまで手を振り続けた後、この場で解散となった。
あたしは目の周りが赤くなっていたシンジ君に声をかけて、一緒に乗ってきた車を置いてある駐車場で待ってもらうことにした。駆けて行ったシンジ君に背を向けて、あたしはそこでずっと立ち止まっていた人に声をかけた。
「日向君」
「・・・はい」
ホームは人がごった返していて、あたし達に目を止める人間はいない。
あたしは神経を落ち着かせて、まっすぐに彼を見て言った。
「君の好意は受けられない。ごめんなさい」
日向君は真面目な顔で、「はい」という。
「加持が、生きているかもしれない。ゼーレの手によって殺されたと思っていたけれど、実際は、加持を殺しに向かっていた人間の死体は発見されていて、加持の死体は発見されていない。相手の死体があった場所には、加持の血が残っていたんですって。でも、致死量には至っていない。なら、生きているかもしれない。そう思うと、もう少し、待っていたくなったの。加持が帰ってくるのを」
色々考えてはみた。分かったことは、どうしても加持の事は忘れられそうにない、という、当り前の、そして大切な事だった。
前は、加持を思い出すと父との類似点を意識していた。それが怖くて加持から逃げ出した、と思い込んでいた。今は違う。それは、父が好きだという事を認めるのが嫌だったこと、つまり父への愛情の裏返し。そして、加持への思いに賭けてみる自信がなかった、あたし自身の弱さの現れだ。
加持に会いたい。会って、あたしからも話がしたい。
だから。
「分かりました」
かすかに微笑しつつ、頷いた日向君は、「失礼します」とお辞儀をした。背を向け、一度もこちらを振り返らずに、ホームを出ていく。
ひょっとしたら、と思った。日向君が第三新東京市再建にかかわっていないのは、この答えを悟っていたからではないのか。
「ごめんなさい」
消えかけた背に向かって、誰にも聞こえないような声で言った。どんなに大声で呼びかけても、彼は振り返らなかっただろうから。
駅の地下にある駐車場へ向かい、車の所へ行くと、あたしに気付いたシンジ君はウォークマンを外した。
「じゃ、とりあえず病院へ行こうか」
「ええ。その後、スーパーで買い物。ミサトさんの数少ないレパートリーの一つ、レトルトカレーが切れているでしょ」
「・・・何か、今、言葉に刺を感じたけれど」
「リツコさんに頼まれていますから。私のいない間、ミサトをしっかり見張っててね、って」
「あの小姑め。帰ってきたら散々からかってやる」
「無駄だと思うけれど」
「う」
それぞれに乗り込み、あたしはエンジンをかける。車はゆっくりと進み始める。
「シンちゃん」
ふと、彼をシンジ君、ではなくシンちゃん、と呼んでいる自分に気付いた。
「はい?」
「ありがとう」
元気づけてくれたんでしょう、とは言わなかった。
「こちらこそ」
微笑みながらの返事に、父さんにちゃんと接してくれて、とはつかなかった。
お互い、それは分かっているから。
そうして、地下の闇を通り抜けて、日の光が差す出口へ、あたしは車を飛び込ませた。・・・
終
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