第九話 野望遥か





 不思議だった。

 周囲には電灯はおろか、月さえみえない。なのに、トウジにはヒカリの姿がはっきりと見えた。

 ヒカリの側からは、トウジの姿ははっきりと見えなかったようだった。もし見えていたら、彼がまじまじと自分を見ていることに、疑惑の影をちらつかせただろう。むしろ、彼女は微笑んで言った。

 「そっち、行っていい?」

 「ええけど・・・」

 ふと、彼女の足元にいる、黒と白の動物に目が行った。ヒカリがミサトから預かったという、新種の温泉ペンギンのペンペンだ。

 ヒカリは近づくにつれ、トウジの視線の先がどこへ向けられているのかに気付いたのだろう。ペンペンが最初、ためらうように歩き出し、しばらくしてからそこらを走りまわるようになったのに心配そうな表情を向けて、

 「ペンペン、不眠症にかかったみたいなの。よく夜中に外へ出ようとするから、それに付き合っているんだけれど」

 「付き合っている、って、今みたいに、一人でか」

 「疲れている姉さんを起こすわけにはいかないし、ノゾミはもっと駄目でしょう?」

 ヒカリの家は母子家庭だ。そして、母はヒカリが小学校を卒業する前に発病した病気で一度倒れて以来、入退院を繰り返しており、自分の店、小さな喫茶店を取り仕切るのが難しい状態である。彼女の姉、コダマはその母を手伝って、事実上の店長代理として店を切り盛りしている。ヒカリも彼女の妹、ノゾミも店の手伝いをしたかったそうだが、姉は中学を卒業さえしていない妹二人を店で使うことは決してしなかった。

 エヴァの使徒との戦闘で第三新東京市が壊滅したとき、店も共に消えてしまったとはいえ、一家揃って、無事に避難できたことは、彼女にはやはり僥倖だったのだろう。トウジの目には、母を看護しながら、家族を養おうとあちらこちらを駆け回っている姉を手伝い、悪戯ずきの妹を捕まえて叱っているヒカリの姿は、前よりもずっと溌剌としていて、表情が良くなっていると思う。

 (結局、胸ん中の取っ掛かりっちゅう奴は、そいつの家に原因がある場合、他人には取り除いたろうなんて無理な話なんやな)

 トウジはそう思う。同時に、何故かひどく胸が締めつけられることを不思議に思う。

 「けど、一人で外に出るのは危ないんとちゃうか」

 「私の住んでいるところ、すぐそこよ」

 「それでもや。こんなとこ、人間の一人や二人ぐらい、すぐに隠せそうやんか」

 ヒカリは途中で立ち止まったまま、何か言いたそうな素振りを見せていた。そうして、「そうね」と一言、言ったかと思うと、

 「なら、これから毎晩、散歩に付き合ってくれる?」

 トウジは立ち上がりかけて、よろめいた。ヒカリが手を伸ばして支えてくれたので転ばずに済んだが、その手のぬくもりが、夜中だからか、いつもより生々しく感じてしまい、慌てて離れた。ヒカリはトウジの様子に一瞬、驚いた様子を見せたが、頬を赤らめたかと思うと、トウジ以上の速さで彼から離れた。

 そのまま、お互いにそっぽを向いたまま、黙りこくってしまった。

 「悪いけど、わし、こんな足やから、夜中にそう何度も、散歩に出かけられんわ。おとんや妹の目もあるし。すまん」

 それだけを言うのに、随分と時間がかかってしまった。

 「そう。そうよね、ごめんなさい。鈴原の足のことも考えないで頼み事をするなんて、謝るべきなのは私の方よ」

 何となく気になって、トウジはそっとヒカリの様子をうかがった。ところが、思わず凝視するところだったのを、無理に戻した。ヒカリは、トウジと同じようにそっぽを向いていたが、落とした肩が震えていた。こんなときに彼女が笑っているとは思えない。

 (わしは)

 唇を、血が出るかと思うほど噛んだ。しかし、いつまでも黙っているわけにはいかなかった。わざとらしく聞こえようが何だろうが、無理に明るい調子を作ろうと、口を開く。

 「そうか。大変やな、委員長も」

 「・・・もう、委員長じゃない」

 「そうやな、じゃ、ヒカリでええか、ヒカリ」

 ヒカリはすっ転んだ。

 「ちょ、ちょっと、突然名前で呼ばないでよ」

 「そうか?そないにひどいことやったろうか」

 「ひどいとまでは言わないけれど、今まで委員長だなんて呼んでたのに、それが突然名前で呼び捨てにされるなんて、極端よ」

 言いながら、ヒカリは胸をおさえつつ、深呼吸している。どうやら、本当に衝撃、とまではいわなくとも、動揺を与えたことを察して、トウジは、

 「すまん。じゃあ、ヒカリはやめとく」

 「うん。そうして」

 強く頷いた後、慌てたように、

 「あ、でも、鈴原が呼びやすいなら、ヒカリ、でもいい。突然に名前で呼ばれて驚いただけで、そういう風に呼ばれること自体は嫌じゃないから」

 「そうか?じゃあ、ヒカリ、と呼ばせてもらうわ」

 ヒカリの様子は妙におかしいが、そうした様子は以前もよくあったので、トウジは気にしなかった。

 ペンペンは公園のあちらこちらを歩き回ったり、つっついたり、転んだりしていた。ふたりはその様子に目を向けたまま、何となく黙ってしまった。

 と、それまで側に立っていたヒカリが、ベンチに座ったままのトウジの脇に、滑り込むようにして座ってきた。トウジは目が丸くなった。

 「いいんちょ、・・・」

 「ヒカリでいい、って言ったでしょう」

 トウジの動揺を、ヒカリは素早く制した。しかしトウジは思わず、といった様子で左右を確認しつつ、

 「いや、ベンチなら、他にもあるやないか」

 「いいじゃない。どうせ二人きりなんだから、離れていたら話すとき寂しいし、一人用のベンチじゃないもの」

 「まあ、そやけど」

 うつむいたままだったヒカリに倣うように、トウジもうつむき、ふたりはふたたび口をつぐんだ。

 ペンペンが二人の気まずさを察してか、ベンチまで駆け寄り、ヒカリの靴をつつこうとした。ヒカリは慣れているのか、あっさりとペンペンのくちばしをかわすと、「駄目じゃないの、ペンペン」と、子供を諭すように、ペンギンに向かって叱った。

 その光景に、思わずトウジは噴き出した。ヒカリはそれを見て、

 「笑わないで」

 と言ったが、そういう彼女の方こそ顔が笑っていた。

 彼自身も、そしてヒカリの方も、ペンペンの介入を感謝しているのが、はっきりと分かった。それがなければ、今の気まずさをどうすれば良いか、分からなかった。

 トウジは寄って来たペンペンの頭をなでた。

 「それにしても、ペンペンにまでこの騒ぎの影響が出てきおったなんてな」

 考えてみれば当たり前かもしれない。環境の変化には、人間よりも他の動物の方が敏感だろう。

 (つくづく、おかしなことになったもんや思うわ)

 原因不明の爆発。誰もが見たという不思議な幻覚。食べ物の入手でさえ難しい生活。増加する犯罪者との戦い。以前は勉強は余りしていなかったトウジだが、最近は自然に教科書とノートに手が伸びた。自分はこういう状況にいるはずではない、という思いが、どこかにあるのかもしれない。

 そして、相変わらずどことも連絡の取れない世界。

 政府は、国連は、と大人達が騒いでいるのを聞いていたが、彼らの本音は、何となく理解していた。

 すなわち。

 被害は全国、全世界に及んでいて、誰も、とても自分達のいるところまで助けを出す余裕などない、ということを。

 一体、いつになったら終わるのだろう。

 いや、本当に終わるのか。

 ふと、ヒカリが彼を見ているのに気付いた。考えにふけっていた彼を、何も言わずにそっとしてくれていたのがありがたかった。

 「あ。ペンペン、くたびれたんとちゃうか」

 それまで動き回っていたペンペンは、今やヒカリの足元で歩き回っているだけとなった。その足取りも、先ほどと比べると緩慢になっている。

 「そうね。ありがとう」

 「そうね。ありがとう」

 ヒカリはペンペンをそっと抱え上げた。ペンペンは特に抵抗もしない。

 トウジは知らず知らずの内に、彼女の横顔を見つめていた。

 今はまだ、そばかすのついた垢抜けない少女だ。けれど、年月はきっと、彼女を美しくするだろう。

 しかし、彼自身は彼女のそうした変化を見ることはきっとできない。

 「じゃあ、もう帰る。鈴原はどうする?」

 ヒカリは、トウジのそうした心境を知るはずもなく、彼に笑いかける。ただ、その笑みは、いつもより陰がさしているように見えた。

 (委員長、ちゃう、ヒカリも色々あるんやろうな)

 トウジはそう考えた。そして、他人が何を抱えているのであれ、本人から口にしない限り、無理に聞きだそうとはしない、というのが人としての道だ、と信じていた。

 そうして、彼はゆっくりと首を横に振った。

 「いや。もう少しここにおるわ」

 「・・・そう。それじゃあ、話に付き合ってくれてありがとう。おやすみなさい」

 「おやすみ」

 ヒカリの姿が闇の奥へ消えたとき、トウジは息をそっと吐いた。

 結局、彼は彼女に何も告げなかった。

 今のヒカリはトウジにとって、今の自分を取り囲む人々の、象徴だった。

 (又、わしが姿を消したら、あいつらは何と言うやろうか)

 父と妹には、明日、エリナも交えて、本当のことを話すつもりでいる。説得するつもりだった。

 (お前にはいつも、いらん苦労ばかりかけさすなあ)

 エヴァに乗って妹の体を治療してもらう、と告げたときの、父の言葉が思い浮かぶ。

 又、父の、心からのすまなさそうな顔を見なければならないのだ。

 (けど、ここはわしがやらんとな)

 エリナの申し出は、ひょっとしたら悪い結果を招くかもしれない。しかし、やれるだけやってみても罰は当たらないはずであった。

 「よし。やろうか」

 立ち上がったトウジの目は、やる気にあふれていた。

 ただ、そこにわずかに、本人も気付かぬほどの、憂いがあった。



 長野県松代。

 首都移転計画により、現在、第二新東京市、と呼ばれている地である。

 日本の国家機関、商社、金融、マスコミ、それぞれの本拠地の大多数がここに居を構えている。人口も、全国各地で減少化傾向にあった主要都市に比べて、急上昇していた。

 とはいえ、第二新東京市の繁栄が、そのまま日本全土の繁栄につながっているとは限らず、日本はバブル崩壊と、それに追い討ちをかけたようなセカンドインパクトによる荒廃の二つによるかつてない不況から立ち直れずにいた。

 さて。サードインパクトが起こると、政治家のほとんどは、みずからの無能ぶりを露呈していた。彼らがこの混乱の中で真っ先にしたことは、少しでも安全な地へ、持てるだけの資産を持って避難することであった。それがかなわぬ者は、政治家であることをかなぐり捨てたか、しがみついただけで何もしていないか、のどちらかであった。

 それはともかく、この第二新東京市における、サードインパクトの影響はというと、政府がまとめたところによると、行方不明者に限っていえば、市の人口の二割。その内の一パーセントが五才未満、二十パーセントほどが未成年者、後の七十九パーセントが成人者、という比率になる。

 首都機能はそうした調査が行えないほどの壊滅はしていなかったが、この第二新東京市とその周辺都市までしか機能できないでいた。そこより外の地域となると、無論、全くの無法地帯となる訳である。一応、機能が及ぶ区域を少しずつ広げてはいたが、とてもではないが、人々の不満を打ち消すことはできないでいる。

 その上、食糧不足、電気、水道、ガス等の設備の修理、電話、各種交通機関の復旧、国の中心にいればいるほど、そのすべきことは挙げればきりがなくなる。

 現在、この街でもっともすべきことが多い者は、おそらく内閣総理大臣だろう。今の総理大臣の名は本山ソウスケ、といった。セカンドインパクトの頃から数えて、ちょうど十人目の首相である。

 各方面からの彼の評価は、能力は普通、支持率は下降気味、通した案は片手の指の数に余る、と、一国の首相とも思えないものである。まあ、日本の首相としては、珍しいものではない。

 人気はサードインパクトの半年ほど前からになる。最初は見た目の真面目さと人当たりの良さから、自然と期待が上がり、人気も上昇していたが、月日が流れ、そのあまりにも何もしない無能ぶりがあらわになると、権威は地に堕ちた。

 それでも彼が首相の座に居続けられたのは、皮肉なことに、第三新東京市及びその周辺で起こった、謎の爆発事故・・・使徒とエヴァの戦いが真の原因であることは言う間でもない・・・が、内閣を非難する声からの、絶好の隠れ蓑となってしまったのだ。

 まず政府はネルフ広報部と手を結び、「謎の爆破事故」として、「原因は調査中」以上の説明をマスコミに対して行わなかった。そうすると、マスコミは、政治問題を後回しにしてでも真相の追究に全力を注ぐようになった。第三新東京市に押しかける者、真相の解明をなかなかしない政府を批判する者、第三新東京市民の声を聞くだけ聞いて満足する者、等々、マスコミは様々に奮闘したが、本当のところは意味のない情報が飛び交う結果となった。人々も、同様の事故が自分達の身に降りかかったら、というよりも、新たな悲劇を見たくて、他の何よりも事故の情報を知りたがり、その情報が真実かは疑おうともしなかった。

 様々な噂、デマ、便乗する宗教や商品が多発した。一部は政府とネルフが裏で糸を引いていたものもあったが、それらがほんの一部となってしまうほど、人々の混乱は深まっていた。そして、真相解明と解決が先、いくら無能な政府とはいえ、時間のかかる政権交代など二の次、と、結果的に人々は、政府の思い通りの声を上げていたのだ。

 しかしサードインパクトが起こり、内閣はそうした手回しを行う余裕もなく、荒廃した国内への対応に追われていた。

 そしてこの日、一日として静寂の日を向かえていないない政府が、たった一言の報告で、その混乱が極まった。

 「ゼーレのチルドレン、アテナ来訪」

 ゼーレの名は、仮にも国の中心にいる者ならば誰でも知っているのだが、チルドレン、特にそのメンバーとなると、知っている者はずっと少なくなる。

 そして、その少数に含まれる者であり、この内閣官邸にいる者が支え、従っている存在は、その広大な執務室で、外国の有名な社の手による、側面に複雑な彫りがなされている机に突っ伏し、後ろの方にだけ申し訳程度に生えている髪の先まで、今にも青白くなりそうなほどに頭を震わせ、それを止めようとしてか、両手でそれを抱えている。

 「終わりだ。私は終わりだ」

 「総理。お気をお静めください」

 総理、と呼ばれた男の右前方に立っていた、こちらは青年と言っても良い男が、眉を少し曇らせた表情を、総理に向けながら言った。しかし、彼のかけた言葉は、首相の上げた顔が、彼に向かって睨んでいる結果をよんだ。普段は大黒さんのような福面の分、首相のそうした表情は、余計に凄みのきいたものとなっていた。

 「高橋。お前は内心、歌でも歌いたいぐらいの心境だろうな。お前とあの男の意見に逆らったばかりに、世界はサードインパクトとなり、私は身の破滅だよ。きっと、世界中の人間が私を八つ裂きにしようとするだろう。そうして、この混乱と破壊を招いた首相として、永遠に名を残せるだろう。しかし高橋、お前達は、無名のままに私の道連れとなるのだ。私以下の人間として全てを終えるのだ。そうだろう!?」

 「総理のご洞察には、私は感銘するばかりでございます」

 本山の、錯乱といってもおかしくはない状態に対し、高橋、と呼ばれた男は冷静に返答した。

 本山の体躯がどちらかといえば小太りで、背も低いのに対し、高橋のそれは女と間違えそうなほどに細長い。同様に顔立ちは、細長い、整った眉と鼻、などで形作られており、多少、うつむきがちに立っている。

 あまり表情のない中で、一重まぶたの奥の、少し黒めが大きい瞳を、ただ、首相の方に向けていた。

 目が血走っている本山は、そのような彼のたたずまいにすら、怒りをかきたてられるようだった。

 「では、認めるのだな。お前達が私を見下し、操っていたことを。それが、おまえ達に逆らったばかりにこの事態を招いたことに、陰であざ笑ったことを!」

 机を強く叩き付けたため、側に置いてあった湯のみ・・・ある人間国宝級の陶芸家が作った最高級品である・・・が倒れ、中の茶がこぼれた。高橋はさりげなく、懐からハンカチを取り出しながら机の脇まで来ると、それで茶を素早く拭きとりながら、

 「確かに私は総理の要請によりあなたの秘書となりました。しかし、あの方とはそれ以来、連絡一つとっていないのは、総理もよくご存じのはずです。取るつもりさえありません。それに、今や、私にとって、総理ほど、人の上に立ち、我々を導く資格のある方など存在しない、と認識いたしております。そのような方を、どうして陰で嘲笑ったりいたしましょう」

 高橋の言葉の一つ一つは、ゆっくりと、事実を反芻している重みをもって流れ、本山は少しずつ相好を崩していき、しまいにはゆるんだ、しまりのない笑みとなった。高橋は折を見て、隣室への扉を開け、そこで待機していた秘書に、総理のだらしない様子を見せないようにしながら台拭きを受け取り、盆にのせた湯飲みと、自分の濡れたハンカチを手渡す。そうして、素早く扉を閉めた彼は、今度は台拭きで机を拭き始める。

 「そうかそうか。私は誰よりもこの地位にふさわしいか」

 「はい」

 「あの男よりもか?」

 「無論です」

 「そうか。よく言ってくれた」

 本山は声を上げて笑った。一国の首相、と言うよりは、時代劇の悪徳商人の方がふさわしい声である。高橋は彼に、相も変わらず、目線をおいている。

 ひとしきり笑うと、総理はお茶の間でおなじみの福々しい笑みをようやく見せて、手を一つ叩いた。

 「よし、陸奥くんを呼んでくれ。小娘への対策を打とう」

 高橋は「かしこまいりました。五分ほどお待ち下さい」と礼をして部屋を出た。きっかり五分後、彼は再び姿を現した。

 「副総理が到着なさいました」

 「そうか、通してくれ」

 扉がより大きく開けられた。

 「副総理。総理がお呼びです」

 「分かった」

 隣室のソファーから立ち上がったのは、SPと間違えられそうなほど、長身で体つきの大きな、背広が実に映える男だった。岩のように彫りが深い顔に、太い眉と、三白眼気味の鋭い目とがある。髪は黒々としたそれを上げている。それが壮年の彼によく似合う。

 異相といえば異相だが、見るからに力強さと頼もしさを感じさせる。そんな男だった。

 高橋にうながされ、男は本山の待つ部屋へ入っていく。二人がすれ違うとき、微妙な視線の交わし合いがなされたが、本人達以外に気づくものはいなかった。

 「総理。お呼びに預かり、参りました」

 「カツヒコ君、よく来てくれた。どうぞかけてくれ」

 総理は、副総理に関しては、こうしたほぼ一対一の場か、私的な場では、名字ではなく名前で呼びたがった。副総理は総理より年下だし、副総理の方も特に何も言わないので、そのままになっている。

 総理は、先程まで高橋の前で見せていた動揺ぶりとまるで対照的に、落ち着きと、トレードマークである笑顔とを崩さないでいた。つと、その視線が扉を閉めた高橋の方向に向けられ、それから再び副総理の方へ戻ると、より笑みが深まった様だった。

 「高橋君と久し振りに会った感想はどうだね?若い者の成長は目覚ましいから、さぞかし驚いただろう」

 「とは申されましても。私の手元にいたときとは違い、もう彼も子供ではなく、大人ですから、一目見たときは、最後に会ったときと大差ないように見えました」

 その笑みに、副総理はそう言って苦笑を返したが、すぐにそれを消し、考え深げに頷いた。

 「しかし、よく見てみますと、言動の一つ一つが、以前よりも遥かに洗練され、かつてはかすかに残っていた子供臭ささえも消え去っておりました。やはり、総理の元で色々と学んだことが良い作用を与えたのでしょう。感服いたしました」

 「そうか。そう言ってくれると、預かった身の私としては安心できるがね」

 「安心、などと。総理の元にいれば彼の著しい成長は保証されたようなもの。そう確信しておりました」

 もしも卑しい笑みを浮かべながらそういうことを言われたのでは、どんな人間であれ、気を害したことだろうが、彼の場合、真顔でそういうことを言うので、総理の方も上機嫌になった。

 「そうだろう、そうだろう」

 と、心底から嬉しそうに笑い出す。副総理はそこでようやく、口元だけ微笑ませ、しかし目は笑わずに、彼が従うべき男を見ている。

 もし、この部屋で起きていることの全てを見ているものがいたとすれば、高橋の総理を見る目と、副総理のそれとが、時折、全くの瓜二つとなっていることに気づいただろう。しかし、現実にはそんな者はいなかったし、総理も、それに気づいた様子はなかった。

 「さて、本題に入ろう。もうすぐ、ゼーレの小娘がここへ来る。目的は恐らく、いや間違いなく“あれ”についてだ。自衛隊の者から言質をもぎ取って来たことは既に分かっている。言い逃れはできない。かといってあちらの申し出に対して首を横に振ると、何をしてくるか分からない。君も知っているだろう。アテナの、わずか数百人ほどの部隊が、あの大国の政府を瞬く間に制圧し、その後、数万もの軍を、自分達はほとんど無傷で全滅させてしまった、嘘のような話を」

 「存じております」

 その国はゼーレの意向に逆らい、軍事政権と化し、隣国に戦争を仕掛けようとしていたのである。現在、その国の政府は内部クーデターにより更に政権が交代、戦争は回避された、と認識されている。軍の規模、及び権力は縮小されていた。新たな政権にゼーレの介入があったことは言う間でもない。

 「下手をすると、この松代でもそれと似たことが起こるだろう。この街には各界の著名人が大勢いる。彼らが何らかの危害を加えられれば、私、達の進退問題にまで発展する。それは避けたい」

 総理が私の後に達をつけるのを、一瞬ためらったことを指摘する者はいなかった。

 「君の意見が聞きたい。何か、良い手はないかね」

 それは目の前の男に縋り付く、というようなものではなかった。何であれ、出された意見を採用し、いざとなれば目の前の男に全ての責任を押しつけてしまおう、というものである。そのような魂胆は誰の目にも明らかなほどだったが、副総理はしばらく俯き、「そうですね」と、あごに手を置いていたが、つと、その手を下ろした。

 「私がアテナに会いましょう。総理が出迎えられた場合、彼女は自分が重要視されていると思い、そこをつけ上がってくるはずです。かといってあまりにも総理とかけ離れた者が応対に出ますと、彼女の、というより、ゼーレを見下している、と見なされても無理はありません。私が出向き、彼女の申し出をはねつけることで、互いが対等な関係を結びたいのだ、という、こちらの意向を示すのです。一方、我が国への攻撃を回避させる為の提案が必要でしょう。かといって、“あれ”を差し出す訳にも行きません。使徒と戦っていた国は、他のどの国でもない、我が国です。その辺りのことを言っておけば、彼女も強く出ることはできないでしょう。私にお任せ願いますか、総理」

 総理は一つ大きく、それから幾度もうなった。まさか、副総理がそのような提案をするとは思わなかったのだろう。しばらく彼は沈黙していたが、しかし一度手を打って、

 「よし、君に任せよう。カツヒコ君、君の肩に松代の、いや、全国民の生命がかかることになる。責任は重大だ。くれぐれも頼むよ」

 責任は重大だ、というところを強調し、いくらか安堵した様子で言った。よほど、責任を取らされるのがいやだったのだろうか。

 その後、いくつかの打ち合わせを行うと、副総理は、「では、これで失礼します。アテナを迎える準備をいたしますので」と部屋を出ていった。

 部屋を出た副総理を真っ先に出迎えたのは高橋だった。二人は向かい合い、外見上は和やかに話し合い始めた。

 この部屋にいる、他の秘書達は仕事で部屋を騒がしくしており、小さく交わされている会話を聞く余裕もなく、また、高橋がかつて、副総理の元にいたことも知っている。副総理が、かつて高橋を手元に置き、手塩にかけること、まるで親子のようだったのを、本山が高梁を無理に自分の元に引き抜いたことも。つまり、副総理より自分が格が下であることを自覚している総理にとって、高橋は大事な人質ということを。

 それ故、その場にいる者の誰も二人の会話に疑惑を抱いたりしなかった。ましてや、二人は微笑み合いながら、懐かしそうに話をしている。これまで、そうして話をする機会すらまず無かったのだ。おそらく、久しぶりに話ができることを喜び合っているのだろう、と見えた。

 その実、会話の内容は喜びとは程遠いものだった。

 「私が行くことにした」

 「やはり、総理では無理ですか」

 「当たり前だ」

 「くれぐれもお気を付け下さい」

 「ああ。ところで、うまくいっているようだな」

 「はい。私を誰よりも信頼して下さっています」

 「それでいい。頼んだぞ」

 「はい。お任せ下さい」

 副総理は激励するかのように肩を叩いて、高橋の元から離れた。高橋はその背に向かって礼をする。

 本山は重大なことを聞き逃していた。副総理と高橋とが彼を見下し、操っていたこと、そして彼の失敗を陰であざ笑ったことについて問い尋ねたとき、高橋ははっきりと、後者については否定した。

 しかし、前者については、一言も述べていない。



 チルドレンは、ゼーレの中心たる委員長、直轄の機関である。委員長を取り巻く委員会の人間でさえ、一応、地位は上とされているものの、チルドレンの人間に命令を下すことはできない。二つの機関が全くの別物、とされている為でもあるが、チルドレンのメンバーは、委員会の人間の血筋である場合が大半なので、チルドレンの人間が私情により委員長以外の者の介入を受け入れてしまうことを避ける為、互いが、意図的に互いの存在を無視しているのが最大の原因である。

 ゼーレの最終目的は、サードインパクト、及び人類補完計画の実行であった。

 人類補完計画。

 増えすぎた人類をLCLという液体に還元させ、新しい生命として更なる進化を始める、という計画である。計画が実行された暁には、生命も、精神も、飛躍的に成長と進化を遂げるだろう、というものだった。

 しかしそれを実行する為の様々な道具と要素は、使いようによっては、様々な結果を生んでしまう、非常に不安定なものだった。

 それ故に、サードインパクトは中途半端な形で終わり、人々の大半はLCLから元の形にかえり、委員会の人間は未だ帰還せず、計画の中心地であった特務機関ネルフもまた、大海に沈んだままとなっている。

 一方、サードインパクト直後に全員の帰還を確認したチルドレンは、すばやく今後の方針を固めた。

 一つ、委員会、特に委員長たるキール・ローレンツの帰還までの、ゼーレ及び世界の制御。

 一つ、ネルフ及びアダム、リリス、EVA各機の調査、回収、掌握。

 その二つの方針に基づき、チルドレンの一人であるアテナは、自分の部下を連れ、エヴァ量産機の回収に乗り出した。

 結果、回収できた機体は予定していたものより三機足りず、彼女はチルドレンの例会でそれを報告することとなった。

 チルドレンの大半が彼女を含めて日本にいる、もしくは向かっているため、直接一つの場所に集うことは困難な為、例会は専用の回線を使用して行われた。チルドレンの回線は、委員会が使用するそれに次いで、世界でも最も堅牢なセキュリティーがなされている。

 回線を開くと、立体映像に、彼女のものを入れて、五つのモノリスが浮かび上がった。アテナは「55」と書かれているモノリスである。

 「皆、揃ったようだな」

 アテナが姿を現したのに対して、「33」のモノリスから、中年の男の、重々しい声が漏れる。

 彼は、厳かに例会の始まりを告げると、

 「まず、エヴァの回収状況について聞こう」

 と、早速話を彼女に振ってきた。

 アテナは、回収できたものとできなかったものの数、できたものは何処にあったか、できなかったものは何処にあると予想されていたものか、等を述べていった。

 「行方が分からないものの三つ目は、第三新東京市に最も近いと予想されていたもの。これがないのは明らかにおかしい」アテナが話をそう締めくくると、「33」は「分かった。ご苦労様」と言い、

 「現在、何処の者がそれを回収できると思うか」

 「そうですね」

 終始、重厚な調子を通す「33」に対して、極めて朗らかに、若々しい声で答えたのは、「88」と書かれたモノリスからだった。実際、声の主は青年といってもいいほどの年齢だ。

 「断定は避けますが、ほぼ確実に日本の戦略自衛隊でしょう。他の二機は、恐らく米と露でしょうね。その辺りの根拠を示した資料は、後でお見せします」

 「分かった。ところで、回収したエヴァ量産型の修理と点検はどうなっている?」

 「現在、7、8、10については修理は終了、使用は可。6、11、12に関しては到着待ちだ」

 そう言ったのは、「33」と「88」の間ぐらいの年齢の男の声で、「77」のモノリスからのものだった。

 「ただ、しかるべき搭乗者がいない。・・・報告では、11号機は謎の爆発により大破、“中身”が空だったそうだが」

 「その通りだ」

 アテナはうなずき、即座に資料の映像を流した。一同はその映像を見て、しばらく沈黙している。

 その沈黙も、唐突に破られた。

 「あらあら」

 破ったのは、それまで沈黙していたモノリスからの声だった。女性のもので、場の誰よりも若く聞こえる。モノリスの数字は「66」。

 「困った子ね、逃げ出すなんて。分かりました、私は当初の目的が片付き次第、あの子を追いましょう。先約がなければ、真っ先にそちらに向かったのだけれど」

 「私の部下を出そう」

 アテナは言った。

 「“あれ”は私の部下に反応する。必ず部下の前に姿を現すはずだ」

 「あの子は、とてもおとなしい子だった。そう、だった、のよ」

 「66」は、笑いを含んだ声でそう告げた。

 「今のあの子もそうだと思っていたんだけれど、実際は激しい子のようでしょう。あなたの部下も殺されてしまうかもしれない」

 「それは私の部下の問題だ。あなたが心配することでもない」

 鋭く、アテナは制する。

 「もし殺されるのなら、それが部下の命運の尽きたとき、というだけのことだ。しかし、私の部下が“あれ”に倒される、ということはまず無いはずだ。今度の“あれ”は目覚めてからまだ半年にも満たない。私の部下は違う」

 「ずいぶんと身贔屓するんですね」

 「88」の言葉に、アテナは平然と、

 「悪いか?」

 と尋ねた。「88」はおくびもせずに、

 「いえ。それより、僕が懸念しているのは、あなたの部下があの子を殺してしまわないか、ということですよ。あの子はあなたの部下を本気で殺そうとするでしょう。なら、立ち向かったものが弾みであの子を殺さない可能性はないですから」

 「その可能性はないとは言えないな」

 「33」はそういったが、しかしすぐに、

 「だが、我々が動けない以上、彼女の部下に任せる以外あるまい?どんなに手を打っても、失敗するときは失敗するのだ。とはいえ、他にも手を打つことはできる。残念ながら、私の部下は実戦向きではないので、そちらに回す訳にもいかないのだが」

 「俺の部下を少し、探索に回そう」

 「僕も、情報収集のみのご使用でよろしければ、部下をお貸ししますよ」

 「77」と「88」から、それぞれ申し出が出て、アテナはありがたくそれを受け入れた。

 「では、“あれ”はできる限り生け捕りにする。最悪の場合でも、遺体から遺伝子を持ち帰られるようにしよう」

 「ええ。お願いしますね」

 「66」がアテナの申し出を承諾し、その話はそれで打ち切られた。

 アテナはその後、部下の一人を野に放ち、「77」や「88」の部下の力を借りて、ある存在の出現を待った。

 一方、自分自身は量産型の内の一つの行方を求めて戦略自衛隊へ向かい、部下と共に本部へ乗り込み、確かな証拠を握った。

 そして量産型を確保すると、その足で直接、松代こと第二新東京市へと向かったのである。

 かくして、邂逅の時は到来した。



 続く



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