過去の研究日誌1

過去の研究日誌 一冊目


 二〇〇〇年七月六日(木)

 ところで、少年ジャンプのサイトの二四時間中、一時間ずつイラストが変わる、という方式になっているイラストギャラリーはひどいと思う。読者層は子供だろうに、子供に夜更かしさせるつもりか?
 けちけちしないで、ヒカルの碁の表紙ギャラリーのように一気にアップしなさい。表紙連載まで載せろとは言わないから。
 といいつつも、頑張ってイラストを回収する。個人的には11時と13時のものが感動した。
 そして、10巻の内表紙のイラスト(ルフィ一行とアーロン一行が対決の形で載っているイラストだ)があったらいいなあと思う今日この頃。

 七月五日(水)に読んだ漫画

・月刊マガジン(講談社)
 川原正敏「海皇紀」
 前川たけし「新鉄拳チンミ」

・週刊少年サンデー(小学館)
 河合克敏「モンキーターン」
 藤田和日郎「からくりサーカス」

 まあ、この両雑誌は、他の連載もぱらぱらと読んでおります。
 ところで、あぶみさん、その指輪私に下さい(おい)。


 二〇〇〇年七月四日(火)

 漫画の感想を書いてみよう、と思ったのはよいが、とてもではないが、最近読んでいる漫画の全てを列記することは難しい。とりあえず、どんなものを読んでいるか少しずつ列記することとする。

 六月三十日(金)
・ビジネスジャンプ(集英社)
 冬目景「イエスタデイをうたって」

 七月三日(月)
・週刊少年ジャンプ(集英社)
 荒木飛呂彦「スターオーシャン」 
 尾田栄一郎「ONE PIECE」
 鳥山明「SAND LAND」
 ほったゆみ・小畑健「ヒカルの碁」

・ビックコミックスピリッツ(小学館)
 曽田正人「昴」

 七月四日(火)


 池田悦子・牧美也子「新世紀悪女聖書」

・オールマン(集英社)
 北条司「F.COMPO」

・ビックコミックオリジナル(小学館)
 ほぼ全部

 とりあえずはこれぐらいで。
 実はわざと書いていないものが数点あるのだが、単に題名やら作者名やら出版社名やらをメモしておかなかっただけだったりする。


 二〇〇〇年七月一日(土)

 今年も残すところ半年となった。と書くと、一年というものが凄くつまらないものに思えてくるのは何故だろう?

 靴の問題だが、シューフィッターの方がいらっしゃる店へ(何故か母と)行ってみたところ、
「この人の足には、普通のヒールは合いませんね」
 とのこと。
 そして特別な作りになっている三センチヒールの靴を履いたところ、おお、歩ける歩ける。喜び勇んでその靴を買った。(値段は格別だった)
 今や、その靴で全力疾走できたりします。たかがそんなことが、以前は考えられなかったことなのである。
 目指すは薬師寺涼子の如く、九センチヒールで全力疾走だ!(やめなさい)

 話題はさらに変わり、某所でも約束した三原順「はみだしっ子」の感想に移る。
 どうしてこの話を知ったかというと、種を明かせば至極明快、以前、「BSマンガ夜話」を見たところ、たまたま「はみだしっ子」を取り上げられていた、というだけのことである。ちなみに「BSマンガ夜話」を見たのは、この「はみだしっ子」の回と、川原泉「美貌の果実」の回のみ。そりゃ、印象にも残るわな。
 ただ、三原順の回は途中から見たので、題名も作者名も分からぬまま番組が終わってしまった。しかしわずかに見ることの出来た内容は心に残り、後に本屋で感動の再会をするに至る。
 発見できたのは、覚えていた内容と題名が見事に当てはまったからであるし、それに、三原順の絵柄は、他では見られない、独特のものだったからだ、と思う。

 以下はネタバレになりますので、読まれたい方だけお読み下さい。

 最終話を読み終わったとき、私はあわてて数ページ前に戻って読み直した。
 訳が分からなかったのである。
 いや、どういう結末となったのかはもちろん分かっていたのだけれど、「これでおしまいなの?」という思いが頭の中に広がり、気が付くともう一度読み直した。それを何度も繰り返した。
 実際、途方に暮れた、という表現が当てはまる。アンジーの独白は中途半端に切られ、時計は五時を指して止まり、雪の降る中に一人取り残された、そんな気分さえ出てきた。登場人物に、何らかの答えが出ることもない(いや、サーニンだけはかろうじて出ているか)。
 しかしそれでも、この物語が行き着くべきところへ行き着いてくれた、という、奇妙な安堵感を覚えるのは、やはり、グレアムの最後の告白があるからだろう。
 そう、この告白により、彼らははみ出していることをやめる、もしくはやめざるを得なくなるのである。
 グレアムの告白が、「自分が」なのか「自分たちが」なのか「マックスが」なのかは知らない。だが、他者に雪山での出来事をゆだねることにより、それを核とした、絆なのか呪いなのかも分からなくなってしまった、四人の関係も、変わっていくだろう。
 とはいえ、私はやはり彼らがはみださなくなることを、少し寂しいとは思う。だが、やっとの思いで最終話にたどり着いた彼らに怒られそうなので、とりあえずはそういった感情に背を向けることとする。
 一つ言えることは、次に彼らが雪の中から出ていくときは、かつてのように、もう、自分たちの無力さに絶望することはないだろう、ということか。

 はい、ここまで。
 今月は色々な漫画の感想をここに載せようか、と考えているが、その前に、しなければならないことが多すぎるしなあ。


 二〇〇〇年四月十四日(金)

 お知らせです。
 某ページへのリレー小説を書き上げるまで、大々的な更新は無しです。申し訳ない。

 就職活動、というものを(今頃)始める。とりあえず合同説明会に行ってみるが、勝手が分からずに逆に相手側からアドバイスされる始末。
 それよりも、生まれて初めてヒールを履いたので、つま先が痛い。わずか三センチのもので根をあげてしまった。

 今、「アンジェリーク」のキャラクター、エルンスト(という人がいるのだ)のシングルCDの歌をエンドレスで聞いている。歌が上手いとくさい歌詞もちゃんと聞けるので不思議だ。


 二〇〇〇年三月二日(木)

 「金八先生」を放って、ドラマ版「恋愛中毒」を見る。
 イメージ通りの配役に「偉い、製作スタッフ」と、とりあえず誉める。特に創路夫婦は凄い。私が想像していた通りに話し、動く二人が画面の向こうにいるのである。水無月や、ちらっと見た陽子も良かったが、やはり秀逸はこの二人だろう。荻原は想像より格好良くて、線が細かった。
 私は、創路先生があの外見なら、中身が原作通りでも許す(馬鹿)。
 内容は、創路が水無月に心底惚れている様子だったので、少し疑問に思う。原作の凄さ、面白さは、段々と明らかになっていく創路のいい加減さと、水無月の執着だったので、普通のドラマを見ているような心境に入ってしまう。
 おまけにのばらが可哀想になってしまった(原作ではまったく可哀想ではなかったぞ)。私なら、妻との大切な日を放って自分の元にいる、と男に主張されると、嬉しいことは嬉しいけれど、物凄く先行きを不安に感じて、物凄く複雑な心境になるだろう。

 CM中に「金八先生」に変えたら、大西さんが身罷られていて、唖然とする。どうする好太。どうなる兼末。


 二〇〇〇年三月一日(水)

 「人にして欲しい事は、まず自分が人にしてあげなさい」
 という訳で、昨日、前回、原作の「恋愛中毒」で「読みたい」と言っていた話を、自分で書き上げてしまう。こういうとき、文章を書いていると便利だ。
 しかし、書き上げてみると自分の未熟な点が目立つので、大いに反省する。
 創路のような、だらしない男を書くのは最高に楽しかったが(だって、その男の運命を左右する、という、水無月もできなかったことができるんですからね、こちらは)。
 それで運を使い果たしたらしく、昨日は外出した後、色々とあった。ええ、本当に色々と。
 特に、真正面からうつぶせに転んだ時は痛かった(顔以外を一度に地面に打った)。しかも走っていたので痛みは倍増だ。
 今朝は今朝で、兄がダウンロードしていたファイルを、操作をミスしたため、ダウンロードできなくしてしまったし。(殺されるかと思いました)
 落ち込むこともあるけれど、私は元気です。って、「魔女の宅急便」でしたっけ。
 元気なだけでは落ち込む自分を救えない、という教訓だな(そういう考えばかりするから、怒られるのだよ)。


 二〇〇〇年二月二十七日(日)

 今、放映されているドラマの一つに、某俳優さんが出演なさっているのを知ったのは先週か、先々週か。
 木曜日の朝、そのドラマの紹介がテレビ欄に載っているのを読む。金曜日の夜、繁華街の本屋でたまたまドラマのノベライズが並んでいる本の中にそれを見つけ、手に取ってめくる。土曜日の夜、というか既に今日となっていた時刻、ネットで検索して大まかなあらすじと、どうやら昨今のドラマにしてはなかなかに深い話らしいことを知る。
 「なんで本屋で手にとった時、買わなかったんだろう」
 吉岡平「旋風のカガリ」(富士見ファンタジア文庫)の三巻を買っていたからであることもすっかり忘れて、そんなことを考える。
 そして今日、バイトの休憩時間を使用して、行ける本屋へすべて行く。目的は達成せず。そこでバイトが終わると、待ち合わせがあるというのに、「走ったらギリギリで時間に間に合う」と決意し、一つ先の駅まで走る。
 走った甲斐があって、本を入手。ちなみに待ち合わせ場所へ戻ったら、既に相手は到着していた。待たせた罰が当たったのだろう、行った店は満員だった。仕方無しにおとなしく家に帰る。

 という訳で山本文緒「恋愛中毒」(角川書店)、読む。
 ドラマになった話ということで、ああ、いかにも大衆に好まれそうな話だねえ、というような、甘い甘い話か、と思っていたら見事に足をすくわれてしまった。
 という訳で、詳しい感想はここから下に隠しました。

 水無月が怖々ベンツを運転する場面で、水無月が、エヴァンゲリオンみたい、と思った、という下りを読んだときは仰け反らせていただきました、が、そんなことはどうでもよろしい。

 「私を愛してくれている人は、本当に私を愛してくれているのか?」
 愛されることを知っている者なら、一度は感じる恐怖ではないでしょうか。愛されたことに喜びを感じ、必死でそれにすがりつき、持続させようとして努力し、努力しすぎたが故に相手を疲れさせ、捨てられてしまう。
 良くも悪くも、水無月は愛されようと必死で努力し、そして自分が愛されることに対して、本当に真摯だったのでしょう。だからこそ最初に母親に、続いて夫に愛されようとした結果、彼らの身勝手さに気付かざるを得なくなっていく。
 夫の、そして創路への、決して世間では見とめられないだろう一連の行動も(彼女がその手を直接下したのは彼らの女達ですが、彼女らを通して水無月が見ていたのは、明らかに男達)、彼女にとっては相手に対する一種のコミュニケーションでしょう。「私を理解してよ。私はあなたからそんな扱いを受けるような人間じゃない」という、無意識の叫び。
 コミュニケーションだからこそ、「どうして私が責められるの」と悩む。無意識の叫びだからこそ、「こんなことをしていただなんて」と後になって驚く。
 もちろん、犯罪行為は行なってはいけませんが、ならば、彼女の叫びはどこへ向かえばいいのか?
 世間一般に見とめられる形へ、その叫びが向かわなかった彼女が不憫でなりません。

 そして創路。彼もまた、愛されようとする行動が歪んでいる。但し、彼が愛されたい、と思っている対象は自分ただ一人、ですが。
 彼は年齢を重ねている分(ついでに文章書きの分)、水無月より性質が悪い。周到に自分が愛する(と思っている)人間たちを配置し、結局は自分をその中心に回す。おそらく、話の中で関係していた女たちとの誰とも完全に縁を切っていないだろうし、のばらとだって離婚していないかもしれない。
 娘を監禁さえした水無月との縁を切らないのも、半分はその、一生変わることがないだろう、性分のせいもあるでしょう。
 では、残りの半分は?
 最後まで読んだ時、私が最初に思ったことは、
 「創路の一人称で読んでみたい」
 でした。といっても、
 「水無月に奈々が監禁された、と知ったときから、刑務所を出てきた水無月と再会するまでの、彼の心中が知りたい」
 ということ。
 まあ、創路のことですし、単に「んなことはどうでも良かった」のかもしれませんけれど(すごい言い草になってしまった)、当時の創路の、自分の娘への溺愛ぶりから見て、それはどう考えてもおかしい。
 最後の場面で、自分で車を運転して水無月に会いに来た創路に、その鍵を見せてもらった、と思いたいですね。以前と同様に会いに来い、と声をかけるのではなく、自分の女に運転させて来たのでもない創路に。
 おそらく、奈々を監禁する、ということを除いては、彼から見たら、水無月の行動は所詮遥か年下のものだし、すべて予想の範囲内だったのでしょう。ところが、思わぬカウンターパンチを受けて、面くらう。水無月の母親や夫がそうだったように、普通はそこで彼女を避け出したのでしょうけれど、彼はそこで改めて、水無月という女を「見た」のではないでしょうか。それは彼が水無月より年長だったからか、文章を書く人間だったからか、それとも彼だったからか。
 水無月が人との接し方を学んでいたように、彼もまた、母親や彼女の夫が出来なかったこと、水無月という人間を真に理解する、ということが出来たのかもしれません。

 結局、寄り添うこともなく、完全に離れることもない、奇妙な関係に落ち着くのは、当然といえば当然の結果かもしれません。「ヤマアラシのジレンマ」を思い出してしまいましたが、二人とも、その刺は物凄く鋭いですし。でも、どうにか温め合える距離を見つけた。
 大団円、とはいえないけれど、すべてが通り過ぎた後、互いを微かながらも特別に思い合う男女だけが残った。ということにさせてください。

 ということでここまで。
 ああ、こんな話をあの方々が演じるとは、・・・ああっ、話が甘くなるはずだっ(というか、原作通りに話を進めると視聴者が離れることを恐れたのかもしれません。気持ちは分かる)。
 ドラマを見たいのだが、金八先生の裏番組なので、ためらいがある。兼末君の行く末が気になるし。最終話は見るつもりだが。


 二〇〇〇年二月二十五日(金)

 そういえば、以前は新しいものを下に書いていたのだが、今は新しいものを上に書いている。
 もし、「日記があるから読んでみよう」という方がいらっしゃったら、順番通りに並んでいないので、さぞかし混乱なさることだろう。
 いっそのこと、昔懐かしのゲームブック方式ででたらめに並べるべきか?
 そういえば、以前から「ゲームブックの指示は偉そうだ」と思っていたが、
 「「よかったら、俺が力になろうか。ただし、それ相応の金を頂くがな」この男の発言に対して、丁重に辞意を表明なさりたい方は二八へ、彼の無礼を非難なさりたい方は一七三へ、何か魔法をかけられたい方は五三二へお進み下さい。よく考えて行動なさって下さいね」
 等という文章を読んだだけで、力が抜けそうである。やはり、偉そうな指示の方がよいのだろう。
 さて、ここであなたはどうするか。一番古い日記を読む(「一九九九年十二月一日」へ)か、このまま読み続ける(次の段落へ)か?
 もっとも、どこへ行ったとしても、このページにいる限り、あなたが読まれるのが室長の日記であることに変わりはない。

 ネットで発表されている日記は結構読む方だと思う。
 といっても、「どこそこでどうした」という、その日の出来事をつづった日記より、「これこれについてこう思った」という書き込みの方を面白く感じる。
 「どこそこでどうした」と出来事をつづったものでも、「ここはこれこれこういうところで、一般ではこのように思われているようだけれど、実はこうなっている」と、内情を説明してくれると非常に助かるし、ためにもなる。
 ネットで発表する以上、日記も人に読まれることを意識しつつ書かねばならない、というのは、日記としては矛盾しているかもしれない。
 そもそも、日記とは自分だけのものなのか、人に読まれるためにあるものか?
 (組織、ないしは団体のために記録をつづっていたのが、自然と自分のための記述へと変化していった、という辺りだろうか)


 二〇〇〇年二月三日(木)

 「マリア様が見てる」という小説がある。今野緒雪という方が、コバルト文庫から出している、シリーズものだ。
 内容ははっきり言って、百合である。
 しかも、設定がすごい。舞台はもちろん私立のカトリック系女学園。そこでは「姉妹」(スール、と読むそうだ)という制度がある。先輩と後輩が姉妹の契りを結び、先輩が女学園における心得等について指導を行うことによって、リリアンの生徒としての精神を受け継いでいく、というもの。そして、生徒一人が持てる妹は一人きり。
 そして、学園内では、同学年の人は「(名前)さん」、先輩方は「(名前)さま」、そして姉妹の契りを結んだ先輩は「お姉さま」と呼ぶのである。
 さらには学園の生徒会は「山百合会」といい、三年生三人が、役員として切り回しを行っている。そして、その三人はそれぞれ、「紅薔薇さま」、「白薔薇さま」、「黄薔薇さま」と呼ばれる。更には更には、生徒会各人の妹は「紅薔薇の蕾」、「白薔薇の蕾」、「黄薔薇の蕾」と呼ばれる。
 しかも薔薇さま達はフランス語で呼ばれるのだ(例えば、「紅薔薇さま」は「ロサ・キネンシス」。その妹は「ロサ・キネンシス・アン・ブウトン」)。
 どうです、この、いかにもなようで、まず他の話では見られないだろう設定。
 と、私が威張ってもしょうがないのですが。

 その、「マリア様が見てる」のパロディSS(しかも内容がちと妖しい)を、昨日、学校でプリントしようとしたところ、印刷できなかった。
 「おかしいなあ」、と思いつつ別のプリンターでプリントして帰宅。
 そして本日、登校した私が、その印刷できなかったプリンターの横のパソコンを何気なく見ると、どう見ても私が印刷したかったプリントの裏面を使用して、別のものを印刷なさっていた方がいた。
 ・・・
 ひょっとしてあなたは勇者?
 と思いつつ、私自身はというと、全てを見なかったことにした。
 少なくとも、私は愚者だ。


 一九九九年十二月一日(水)

 唐突に、日記を始める。
 理由は特に、ない。

 ちなみにこれを打っているのは翌日の二日、しかも午後の四時。こんなのでいいのだろうか。

 起床後、湯豆腐と煮野菜を青じそドレッシングでいただく。
 支度をして学校へ。後で起きた妹のほうが先に出発してしまった。
 登校途中、池波正太郎の「剣客商売 暗殺者」を読み終ってしまったので、三宮で本を買うことを思いつく。色々と回った末に、前々から欲しかった村山由佳の小説と、中村うさぎのエッセイ(手元にないので、題名が分からない。明日にでも変更しておこう)を買ってしまった。買って「しまった」というのは、ハードカバーの本を一度に二冊も買うと、バイトの給料日前が恐ろしいことになってしまうことに対する恐怖である。
 まあ、どちらも面白いからいいか。
 田中芳樹の「アルスラーン戦記」の新刊も購入するか、迷った末に先送りにする。

 学校に向かう前にコンビニでおにぎりを購入。たらことハム。ハムはおにぎりの中にあるのではなく、おにぎりの上に載り、海苔をくるりと巻いているもの。
 学校に到着後、部室で食べる。

 授業。
 先生はいつも通り気合いの入った授業をなさる。
 私はいつも通りそれを聞きながら別のことを考える。吉岡平の「アプラサス・リターンズ」(ソノラマ文庫)のパロディなんぞを考えている内に、授業が終わってしまった。
 先生、すまない。

 ゼミは普通に受ける。パロディ何ぞを考えていたらすぐにばれてしまうからである。
 東洋史のゼミを受けているため、中国語による日清戦争についての説明文を訳している最中である。その文を書いているのは中国の人だと思われるが、何だか、描写が大仰である。
 進行は、もうすぐ私が訳を受け持った箇所に差し掛かりそうなのだが、実は現在、最初の一文しか訳していない、という体たらくで、授業中、「どうしよう、どうしよう」と言ってしまう。
 結局、私の番は来ず。もし来たら、無理やりその場で訳したものを披露する覚悟だったが、そうはならなかった。しかし、先ほどの私の言葉を聞いて、先生も皆もどう思ったことであろうか。
 皆、先生、すまない。

 実はこの後、ゼミで飲み会があった。
 とりあえず五限目に授業がある人達をそのまま先生の部屋で待つ。中国の二十世紀を様々な写真で振り返る、というような主旨の本をパラパラと見る。その中で、どんなものか、内容をここには書きづらい写真も載っていた。所詮、人間の肉体は、命が消えたら「物」なんだなあ、と思いつつ眺めていたら、後ろを通った人がその写真を見て、「何を見ているの!」と悲鳴をあげた。困ったものだ。・・・真の意味で困った人は、んな写真をしげしげと眺めていた私の方か。

 三宮へ移動、飲み会。
 といっても女子大の、しかもゼミの先生付きの飲み会である。行儀は良いものだ。
 でも喋る。
 食べる。
 無論、飲む。
 しかし、皆でコース料理(大皿に載って色々と出されてくるものを、皆でつつく方式)を頼んだら、最後にオムライスが出てきたのには閉口した。
 卵料理を最後に出すな!美味しかった分、余計に腹は立つ。
 そして先生、余った肉料理を私に勧めないでくれ。と思いつつ、食べる(←断われよ)。
 ちなみに飲んだもの。
 カンパリのソーダ割り(かんきつ類の内皮の味)。
 木いちごのお酒のソーダ割り(ブルーベリーのガムの味)。
 ザクロのフロートソーダ割り(これは酒ではない。ただしかき氷のシロップの味)。
 水(普通の水)。
 ここからは人のを一口もらったもの。
 スイカのお酒のソーダ割り(これは皆に回された。ほぼ全員、口に含んだ瞬間の顔つきが変わった。というところから味を想像してください)。
 イチゴミルク(アルコールは入っているはずなのですが、イチゴミルクでした)。
 ワイン(ワインでした。って、ワインじゃなかったら詐欺ですな。アルコール度数は多分これが一番上)。
 しかし、飲んだものの内、ワイン以外はただのジュース、という感慨が拭えない。ま、ソーダで薄めているからだろう。
 ふと見ると、先生がからかわれていた。
 「両手に花だねー、先生」
 花にも色々あるからねえ。

 帰って、風呂上がりにゼミの中国文の訳にとりかかる。実は内心、ゼミで「訳していない」と言ってしまった自分に腹を立てていたりする。
 でも力尽きる。


 十二月二日(木)

 用意をして家を出た頃には、授業には間に合わないことを悟り、欠席を決意。
 先生、ごめんなさい。
 先生方に謝ってばかりの気がするのは何故だろう。
 電車に揺られながら、以前も読んだことのある、藤水名子「あなたの胸に抱かれたい〜長安遊侠傳〜」(集英社文庫)を読む。「逃げる。・・・俺は、逃げるぞ」の下りで、やっぱり殺される。
 絶対いないって、こんな男。
 さて、三宮で田中芳樹の「アルスラーン戦記10 妖雲群行」(角川文庫)を購入。早速読んで、その展開に混乱した。
 ブルータス、お前もか。
 頭の中でその言葉が繰り返される。
 もっとも、シーザーと違って、その言葉を使用したからといって、私は死ぬようなことはない。

 学校に到着。菓子パンをかじりながらネットを見る、という、パソコンを大切に扱っている方が見たら、卒倒しそうなことをする。
 藤水名子の公式ページを発見。早速、作品紹介をざっと見る。上記の話は、「タイトルが恥ずかしいと言われた」そうだ。納得。でも私がこの話を最初、書店で手に取ったきっかけは、タイトルに惹かれるものがあったからだったりする。
 日記を作成する。いつまで続くか、私にも分からない。

 「アルスラーン」を読みながら帰宅。
 夕飯は焼きそばとイカの刺身。焼きそばを食べた後、イカの刺身でご飯を食べる、という、書いただけで腹にもたれそうなことをする。では実際にそうしたらどうなったかというと、やっぱり腹にもたれた。
 食べながら「三年B組金八先生」を見る。「現実とは違うんだろうなあ」と思いつつ、展開が結構面白いので見てしまう。

 昨日に続き、鉛筆をカッターナイフで削った後、中国文を訳す。
 私は昔からカッターナイフで削った鉛筆を愛用しているが、手先はちっとも器用にならない。この前など、何度も芯を折って、「もう嫌だ」と言いながら、削ったものだ。今回は「あまり」折らなかった。
 気合いを入れて辞書をめくるが、やはり力尽きる。
 たった数行の文を訳するのに、一々力尽きてどうする。


 十二月三日(金)

 自分の願望を、そのまま現したような夢を見る。
 起きた後、その浅ましさに朝から苦しむ。

 休み時間、大急ぎで弁当を購入、ネットをざっと見る。
 最近のエヴァのパロディ小説でも注目株と思われる「2nd Ring」が新作を出していた。でも見ている暇はない。
 私はラブラブだけの展開には興味がない(ラブラブに興味がないわけではない)ので、そろそろ本来の路線に戻ってほしいところである。

 授業で、印象派の時代、つまり十九世紀末から二十世紀初頭の時代の絵を見る。
 オルセー美術展に行った時、その色彩の美しさにいたく感動したモネの絵を見る。たぶん、本物はこれよりずっと綺麗なんだろうなあ、と、溜め息をつく。
 ちなみにこの場を借りて懺悔しますが、その美術展で、私は男の人二人が並んでいる絵を指差して、同行者に「この二人はひょっとして夫婦か」と言ったのを、博物館の方に聞かれたのに気付き、慌てて逃げました。
 馬鹿な口を下手に叩いてはならない、という、教訓である。

 私が今しているバイトは、スーパーのレジの人(いわゆるチェッカー)である。ついでに言えば、このスーパーは駅前にあるのに入り口が目立たないため、レジの仕事が比較的楽である。
 が、しかし。
 この日は、いつも配るチラシの隅に、謎の数字が印刷されていた。
 「これ、今度のプレゼント抽選の番号だから、お客様に説明して下さい」
 かくして、地獄が始まった。
 「こちら、賞品が当たります抽選番号の数字でして、当選番号の発表と商品の交換とは、明日と明後日のみ行ないますので」
 文章にすると結構短い。
 しかし、考えても貰いたい。普通、レジの人間が口にする言葉といえば、
 「いらっしゃいませ、お待たせしました」
 「1450円、頂戴いたします」
 「1500円、御預かりします」
 「50円のお返しです。ありがとうございます」
 それが、
 「こちら、賞品が当たります抽選番号の数字でして、当選番号の発表と商品の交換とは、明日と明後日のみ行ないますので」
 を、来る人来る人全員に、しかもチラシのしかるべき箇所を見せつつ、言わなければならないのだ。
 とはいえ、後に並んでいらっしゃる方がいない時は、全く支障はない。
 しかし、これがお客様が十人ぐらい並ばれていたりすると、
 「そんな説明、もう聞き飽きたわよ。まったく、早く次に進みなさいよね」
 という、声無き声が聞こえてくるようで、結構怖い。

 惣菜コーナーのハンバーグを頂く。
 流石に温かいので、冬とはいえ腐るのが不安である。早めに食べよう。

 やっとのことで、中国文の訳を、自分の納得できるところまで完成させる。とりあえずは一安心。
 ハンバーグを食べ忘れていたことに気付く。明日でも大丈夫だろう。


 十二月四日(土)

 起きたら父が怒っていた。
 「何だ、このベランダは。掃除するぞ」
 という訳でバケツを運ぶ。落ち葉を初めとする汚れを水で流して、更に溝に溜まった葉をちり取りにとって、捨てる訳である。
 ちなみに、我が家はベランダに鉢が三十鉢近くある。
 マンションなので、生き物が飼えないことへの不満が、ここに収束されているのである。
 そういえば、バイト先のスーパーでは、なぜか夏頃から金魚が飼われているな、と思いつつ水遣りのためのじょうろも運ぶ。

 一時からバイトに出る。
 昨日、あんなに配ったのだから、
 「見てください。当たりました」
 「おめでとうございます。この商品をお受け取り下さい」
 というような場面を何度も見れるもの、と思っていたら、「当選番号の確認に来ました」という人自体が非常に少ない。まだ土曜のお昼だからか。
 もちろん、「当たりました」という人はもっと少ない。

 そして美容院へ向かう。
 私はショートへアだが、二ヶ月も経つとうっとうしいこと、この上ない。で、切ってもらうことにした。
 コンタクトにしてからは、切ってもらいながら雑誌を読むのが楽になった。ふと見ると、「男に騙されやすい女の特徴」という項目がある。そのうち、いくつか当てはまるので焦る。
 しかし、項目の中に「黒目が大きい」「だんご鼻」というものがあり、「それのどこが関係あるんだろう?」と首を傾げる。
 それに、「いつも心のどこかで孤独を感じる」は、たいていの人が感じている事ではないのかね?(だから、宗教や詐欺が流行るのだし)
 しかし、「王子様を待ち望んでいる」というのには、少し閉口する。
 私は、「女はいつだって王子様を待ち望んでいる」と考えている人間が、嫌いだ。そこには、女への侮りと嘲りがふくまれているので、嫌で嫌でたまらない。
 そして、世の中にはたまに、そういう女がいるのを知っているので、更に嫌で嫌でたまらない。
 王子様なんていない。
 そう自覚しなければ、惚れた相手の嫌なところ、弱いところ、情けないところ、全部ひっくるめて、理解しようとし、受け入れようとすることなど出来るものか。


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