ではお別れ

ではお別れ




 腹に手をあてると、血ですべった。痛みを覚えない段階はとうに過ぎ、今は体を貫いた傷が、彼女が体を動かすごとに、熱を帯びながら存在を主張している。

 紅く染まった服に、髪に、歩を進めば水滴が滴る。血に習うように、この一滴一滴も彼女から力を奪っていく。生ぬるい粒は体をつたい、傷ができた時の、数段劣りはするが確かに模倣となって、苛んでくる。

 見上げれば、雨に逆らうように声が暗雲の立ち込める空へ轟いた。彼女のいるところからは遠いものに聞こえた。耳に響くのは降り止まぬ雨と、己の心音だけだ。

 また、傷が自己を主張する。無意識に体を抑えようとして、手を滑らせる。

 「全く、・・・何てことをしてくれるの」

 心に出すだけでは足りず、口に出してみた。

 「全く、・・・」

 足が重い。しかし行かねばならない。

 建物の角に手をかけ、どうにか道を曲がると、途端に大音声が彼女を圧した。目の前に人々が彼女に背を向け、群れている。どの人物も傷つき、どこか疲れた顔をしている。

 人々の先にあるのはこの都の大通りだ。今、両端に群衆は立ち並び、広く開けた中央を向いている。ひしめくように並んでいても隙間はあり、彼女の立ち止まった位置からでも十分に通りの様子は見えた。

 折り目正しく服を着ているのは海軍だ。彼らはせわしく動き回りながら怒声を発し、縄で腕をくくり付けられた者達を進ませるよう促していた。彼女は縛られている者達を知っている。だから胸を痛めた。ふりだけでも。

 いま、もし海軍の誰かが、いや、群集の誰かが彼女の姿を目に止めれば、不審に思うだろう。いくら戦があったとはいえ、彼女のような軽装で負傷した者はまずいない。人によっては彼女の素性を知ってさえいるかもしれない。そして、その人物は決して彼女を見逃しはしないだろう。ここにいる全ての人間が巻き込まれた戦争を、裏から煽っていた組織の頂点にいたのだから。

 それでも、彼女は立ち続けた。

 押さえた手の間から地面へと朱が滴り落ちた頃、歩かされている者達の縄が途切れた。車輪の音が聞こえたのは空耳ではない。人々が静まっている。

 檻の車が進んでいた。海軍の人間がこれまで以上に幾重にも囲まれた檻の中には、たった一人の人間が座っている。

 人々は言葉を発さなかった。彼らが砂漠の王と、英雄と称えてきた男が、国をきっての争乱を煽った罪人として捉えられ、連行されているのだ。無理もない。

 気がつけば、壁を握っている手に力がこもっている。この場にいる誰よりも、彼が何をしたか知っている。四年間、手を組んで今日の戦の計画を進め、労を重ねた。結果、何にもなりはしなかった。

 二人は本来の目的を失って決裂した。計画が潰えた今、彼女も縄に捕らえられてもおかしくなかったのに、群衆の影で罪人の行進を見る側に回っている。

 彼は前見た時よりも服が破れ、傷を幾筋も負い、左腕の鉤爪は折れていた。それでも昂然と顔を上げる。群衆など目に入らぬように、ただ己が入れられている檻の車が進む前方を見ている。

 なのに、一番、彼女のいるところから車が近くを通るとき、その険しい表情が少し緩んだかと思うと、頭が動き、視線が合った。

 何秒にもならぬ時間だったに違いない。彼女は目を背けなかった。逆に壁から手を離し、血にまみれた服を隠すこともせず、一歩、彼のほうへ近づく。彼が大声で彼女がここにいることを告げてもおかしくないし、そういうことを平然とする男だ。しかしこの瞬間、痛みは体から消えた。傷すら消えたのかとさえ思われた。

 気が付けば、声に出しても相手が聞き取れる筈もないのに、口から言葉が漏れていた。

 はたして、彼は笑った。変わることない、腹の底からの嘲りが全てのあの表情を見せる。

 頭を戻したとき、車は視界から消えた。

 人々からわずかずつ、声が戻ってくる。彼女は背を向けた。もはやこの国にも用はなく、全ては終わった。


 「みじめね」

 彼女は笑いながらそう言っていた。

 どちらがだ、と思う。苦汁を舐めさせられたのは同じではないか。もっとも、彼女を地にはいつくばわせたのは彼自身だったが。

 確かに彼の状況は悪い。しかし、そもそも失った全ては彼には興味がなく、失うべきではないものは、実は何も失っていなかった。それに気付いたのは、彼女の姿を見つけたときだった。

 次に会えば殺すだろうか。殺すかもしれないし、殺さないかもしれない。二度と会えずとも構わない。また、殺しに来ても反撃はするが、気にしない。

 だが押さえつける。いつか必ず、決裂の行く末を定めなければならない。それは彼女も分かっている筈だ。

 彼女が見えなくなると、再び光景は色あせた。相も変わらず面白味のない顔ばかりで、何の興味も起こらない。

 それでも、戸惑いの中に怒りを見せる者もいる。それでいい。今まで必死に信じていたものが崩れると、不信へ大きく反動する。極度の不信は極度の懐疑を生み、結果、それが争乱の種となる。

 又、彼は笑った。今を楽しめることを思って、更に笑った。

 そうして、傍にいた海軍の人間に「おい」と声をかけた。もう、誰の手にも届かないところへ行ったのを分かっていながら。

 「今、俺のパートナーがそこにいたぞ」




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