EVE−repeat itself− vol.1

EVE−repeat itself−






vol.1 nightmare




>Marina

 時折、夢を見る。

 夢の内容は様々だけれど、結末はいつも同じ。

 そう。夢から覚めたら、ひとりということ。

 「・・・」

 今朝も、夢を見た。夢の内容は起きたときに忘れていた。

 頭が重い。

 部屋の中に光が差し込んでいたので、何気なしに窓の外を見る。今日も、いまいましいぐらいにいい天気だ。

 「・・・シャワー浴びようっと」

 バスルームへ重い体を引きずりながら、前はこうじゃなかったのにな、と思った。すぐに首を振った。前がどうだろうと、今のあたしはこれだ。

 鏡を見る。乱れた長い髪、やつれた顔。けれど、目だけは光っている。

 そう、目だけは。


 法条(ほうじょう) まりな。それがあたしの名前。

 肩書きは国家機関、内閣調査室の特別捜査官。・・・けれど、ここ半年は裏方専門になっている。階級も、前は一級だったけれど、今は級外だ。

 きっかけは半年前、ある事件に関わったことがきっかけだった。あたしはその事件で何もできなかった。何もできず、大切な人達が目の前から消えていくのを見ていた。

 どんな能力も、肝心なときに何もできなければ、何も持っていないのと同じだった。

 事件が終わった後、捜査官の仕事を辞めようとしたあたしは、裏方に回ったらどうだ、という勧めを受けて、今、ここにこうして存在している。

 「失礼します」

 あたしは仕事場の扉を開けて、敬礼をした。

 「おはようございます。法条まりな、ただいま着任しました」

 「うむ、法条捜査官の着任を確認した。はい、おはよう、まりな君」

 部屋の中は案外狭い。その部屋の奥に置いてある机にいた、年は四十代前半、ひげを生やして顔立ちが渋くなった、背広姿の男・・・本部長は、いつも通りの返事をする。

 本部長、というのは本当は今の肩書きではなく、以前のものなのだけれど、あたしには一番なじんでいる名前だから使っているだけのこと。名前は甲野(こうの)。あたしの直接の上司だ。あの事件の後、あたしに裏方に回るよう勧めてくれたのも、実は彼なのだ。

 「それにしても、本部長・・・」

 あたしは本部長に近づくと、そのひげを思いきり引っ張った。本部長が、慌ててあたしの手を払うと、口元を隠す。

 「な、何をするんだ」

 「気にしないで。毎朝の恒例行事じゃない」

 「・・・あのね、そうやって、毎日毎日ひげを引っ張られる身にもなってよね、もう」

 「いいじゃない、不潔の証を少しずつ処分してあげているんだから。で、まだ続いてるの?」

 「そうだよ。続いていたら悪いとでも言うの」

 「悪いとまでは言わないわよ」

 実は本部長、香川(かがわ)さんという彼女がいる。本部長には奥さんがいるし、香川さんにも他に恋人が(多分複数)いるので、立派な不倫関係の成立だ。ひげも、香川さんに言われて生やすようになったらしい。私がひげを「不潔の証」と言っているのは、そういうことだ。

 本部長から話を聞いたのと、あたしの知っている香川さんに対する印象からして、本部長が一方的に香川さんに入れ込んでいるようで、ま、去年中にあっさりと本部長が香川さんに振られて終わるか、と思いきや、意外や意外、あたしが知っている限りでは、もう半年ほど関係が続いている。本部長が意外と自己の演出能力に長けているのか、香川さんが意外と辛抱強いのか。確率は五分五分よね。いや、四分六分?

 しかし、「ダンディ中年」を自称(しかも暗号名にまで)するわ、同性愛の気もないのに時々オネエ言葉になるわ、我が上司ながら謎の人である。本当。

 「で?今日は何の用?」

 「うん。実はね」

 と、本部長が目を向けた先に、ソファーに座っていた一人の男の子がいた。本部長がそちらに目を向けると、すらりと立ち上がり、敬礼する。

 「始めまして、法条捜査官。本日付で同じく特別捜査官としてこちらの配属となりました、中継 裕輔(なかつぐ ゆうすけ)です。どうぞよろしくお願いします」

 歯切れ良く、そう告げた姿は、仕立ててから間もない背広姿で、初々しい。というより、この仕事の新人は、少なくとも二十代前半の筈なのに、どう見ても高校生ぐらいの年にしか見えない。女が見てもうらやむぐらいの茶色がかった短髪は艶があって乱れは見えず、子犬のような目は丸く、顔立ちは童顔だけれど、かなり整っている。体つきも細くて折れそうだし、背もあまり高くない。うん、わたしが年下好みでないのは置いておいて、容貌については、及第点を与えてもいいかな。

 「はじめまして。法条まりなです。よろしく、中継君。で、本部長」

 礼を返したあたしが本部長の方に顔を向けると、本部長は頷いて、

 「彼に、君の次の任務の、補佐を任せたいんだ。いいかな」

 「次の任務、って、まさかあたし、また“表”に立たされるの」

 「悪いけどね」

 あたしは本部長の机を思いきり叩いた。同時に、机のどこかが壊れた音がしたけれど、気にするものか。

 「もう、どんな事件でも、直接関わるのは金輪際ごめんだって、あれほど言ったじゃない」

 「分かっている」

 本部長はもう一度、深く頷いた。その、深刻な面もちに、あたしは少し理性を取り戻した。

 「けど、任務の内容を聞いたら、そうも言っていられなくなるよ」

 「・・・どういうこと」

 言ってから、あたしの脳裏に、ひらめくものがあった。

 「まさか」

 「そういうわけ」

 本部長とはツーカーの仲なので、それだけで大体のことは分かる。

 つまり。

 あたしが半年前に関わって、あたしにも重大な転機を与えた事件・・・これの詳細はまた後で・・・が、今回の任務に関わっている、ということだ。

 「どう、引き受ける?どっちにしろ、お役所仕事だからね。上の方では決定済みのことだから、今、ここで任務を受けるか、捜査官を辞めるか」

 本部長の口調は相変わらず軽い。けれど、有無は言わせないし、ちゃんとこちらへの思いやりも感じさせる。

 「・・・自分で人の退路を切っておいて、その台詞とはね」

 「で、どうするの。引き受けるの」

 「そうね、特別手当が出るのなら、引き受けるわ」

 「退職金なら、すぐに支払ってくれると思うよ。そうかあ、まりな君も辞めていくのか。世も末だな」

 「どうして世も末なのよ!税金だからってけちけちしないで、たまにはそれぐらい出してくれてもいいでしょう」

 「そこをあえて耐えるのが僕ら、というものじゃない」

 まったく、毎回毎回、同じ様な事を言い合っている気がするぞ、あたしは。

 「分かったわ。でも任務が終わったら、休暇をとるからね」

 「それは御随意に。じゃ、中継君」

 「はい。これからよろしくお願いします、法条先輩」

 「こちらこそよろしく、中継君」

 問題は、彼がどれくらい役に立つか、ということね、と、あたしはまだ礼にぎこちなさがある彼に笑みを返しつつ思った。

 「では、依頼者を待とうか。後五分でここに来るよ」

 「そうなの?」

 そう尋ねた途端、部屋の扉が軽く叩かれた。

 依頼人だ。

 本部長は居住まいを正すこともなく、「どうぞ」と言った。ためらいがちに、ゆっくりと扉が開かれる。


>Kojiro

 夢を見た。

 顔ははっきりと見えないが、なかなか体つきのよろしい女が現れて、俺に目配せをしてくる。俺が素直にそれに応えていると、背後で女の、押し殺したような嗚咽が聞こえた。

 「・・・小次郎(こじろう)。どうして、私以外の女を構っているんだ」

 声が震えるのを必死でこらえながら、うつむいてそう言っているのは他でもない、弥生(やよい)だった。いつもの仕事着に包まれている肩にかかる髪がとても艶めいている、・・・などと考えている場合ではない。

 「弥生。なあ、弥生。俺が悪かった。だから泣きやんでくれよ」

 俺が弥生の両肩をそっと持ち、そう言ったが、弥生が泣きやんでくれる気配はありそうにない。

 と、先程の美女が、俺の腕にそっとからみついてきた。その腕から伝わる胸の感触がかなり豊かで、・・・おや?

 「あら。これから、いつかみたいに可愛がってくれるんでしょう。早く行きましょう」

 そう言ったのは、他でもない、シリアだった。弥生は顔を上げると、シリアをにらみつけた。

 「あんた、ひとの男にちょっかいかけて、何様のつもりだ」

 対するシリアは余裕たっぷりに微笑む。

 「自分の男が、自分だけに構っているとは思わないことね、弥生」

 「どうして私の名前を知っている!?」

 「さあ。ねえ、小次郎。どうしてかしらね」

 二人に面識があることは知っているが、その時のことはとても口に出せないため、俺は口をつぐんでいた。その間に、弥生は「どういうことなんだ」と襟をつかんでくるし、シリアはますますしなだれかかってくるし、それに恭子(きょうこ)や茜(あかね)やプリンや真弥子(まやこ)が加わってきて、・・・

 ふと、目の前に見知った姿があったので、俺はそこへ向かって叫んだ。

 「おやっさん、助けてくれ」

 相変わらず一流どころで仕立てたように見える(見えるというところがミソ)背広姿のおやっさんは、気のない表情でそのひげ面を俺の目の前にまで突きつけてきて、「ふむ」と葉巻を口から離した。

 「自業自得だな」

 「そんなこと言っていないで」

 「だから、弥生は泣かすな、と言っただろうが。少しは反省しろ、馬鹿者」

 そう言って、俺の眉間に思いきり、葉巻が押しつけられた。

 俺は絶叫した。


 視界に光が入ってくると共に、腹に肘が入っていた。

 「朝っぱらから絶叫するな。近所迷惑だろ」

 仁王立ちで、腹を押さえた俺を見下ろしているのは、パジャマにエプロンをかけた弥生だった。

 俺は上半身だけ起こして大きく伸びをしつつ、腹をさすった。

 「朝っぱらから腹に肘を入れるなよ。もう少し下だったら、恐ろしいことになっていたじゃないか」

 「入れてやろうか」

 「・・・結構です」

 ふと、鼻が味噌のいい匂いをかぎ分けた。台所へ向かう弥生の後ろ姿へ声をかける。

 「今日も弥生が作ってくれるのか。ありがたや」

 「ああ。いつも私が作っている気がしないでもないな」

 「なら、俺の倉庫に泊まればいいじゃないか。うまい飯を食わせてやるぞ」

 「小次郎の飯など、トーストに焦げた目玉焼きが付いていれば上出来じゃないか。そんなものばかり食べていたら腹を壊す」

 「前、ここにいたときは当番制だったからな。・・・そうか、弥生が俺の所で飯を作れば、全て丸く収まるな」

 「・・・馬鹿」

 テーブルに飯をお盆で運んでくる弥生が、じっとこちらを睨んできた。先程の夢の中でシリアに睨んでいたそれと比べると、敵意もなく(俺に対して敵意があったら恐い)、ふくれている、という感じで可愛らしい。

 と、目をそらすと、何事もなかったかのように、空のお盆を手に台所に戻っていく。・・・何なんだ。


 朝食を食べている間に、簡単に説明をしておこう。

 俺の名前は天城 小次郎。「天城」は「あまぎ」と読む。

 職業は私立探偵。以前は弥生、・・・桂木(かつらぎ) 弥生が現在所長を務めている「桂木探偵事務所」にいたのだが、今は独立して「あまき探偵事務所」を立ち上げた。

 というのも、当時の所長、今は亡き桂木 源三郎(俺が夢の中で「おやっさん」と呼んでいた男だ)の不正を公に暴露したため、自主的に事務所を抜けた、という経緯がある。その時、前所長の娘であり、俺と同棲していた弥生のマンションからも出ていった。

 弥生とはそれっきりにしよう、と思っていたのだが、やはり同じ街で同じ仕事をしていたせいか、すぐに再会してしまい、結局、紆余曲折を経て、よりが戻っていた。

 よりは戻ったが、俺はもう桂木探偵事務所に戻る気はない。戻らないことが、内部告発、それも恩師であり、弥生の父親でもあるおやっさんに対してのものだけに、通すべき義理だ。その後、おやっさんの不正には色々と理由があったことが分かりはしたが、戻らない気持ちには変わりがない。

 事務所の中心的存在だったおやっさんと俺が抜け、弥生が所長に就いた「桂木探偵事務所」は、一時は潰れかかったものの、今は順調に仕事をこなしているようで、弥生も所長職が板についてきている。他の所員も入ってきているそうだ。

 まあ、そんなこんなで、俺と弥生は互いの予定の間を(というほど俺の方は予定はないが)縫って、夕べから弥生のマンションで、久しぶりにゆっくりとしていたわけだが。

 俺の携帯電話が鳴ったのは、丁度、朝食の最後の一口を食べ終えたときだった。慌てて飲み込むと、ボタンを押す。

 「はい」

 『小次郎?』

 電話を通してもはっきりと通る声はよく知ったものだった。

 「そうだ。恭子だな」

 『ええ』

 といっても、この携帯の番号を知っているのは、俺の唯一の部下である彼女しかいない。

 そういえば、俺の「あまぎ探偵事務所」がどうなっているのかを説明するのを忘れていた。

 実をいうと、俺の事務所にも、依頼が入るようになってきている。といっても、まだ週に一度あれば御の字の赤字経営だが、何ヶ月も依頼がなかった設立当初に比べれば段違いだ。

 それもこれも、押しかけ女房ならぬ押しかけ所員として事務所に入ってきた、氷室(ひむろ) 恭子が、地道に宣伝活動を行ってくれた功績が大きい。・・・と誉めておくことで、給料の代わりにしてくれ、と以前言ったら殴られた(弥生なら、「当たり前だ」とつっこむだろうな)。

 まず恭子は看板をもっと目立だった、それでいて品の良いものにし、倉庫街という、只でさえ人が訪れにくい場所であることを憂慮して、倉庫街の入り口から誘導できる貼り紙をそこら中に貼り、更にはビラまで刷って、それを街中で配った。他にも結構色々な手を使ったりもしたが、それには口に糊させていただく。

 ともあれ、そうして一月を経過した頃から依頼も訪れ始め、現在までの経過はまずまずのところだと思う。

 携帯電話を持つよう言ってきたのも、実は恭子の案だったりする。よっぽど誰かに傍受されてはまずいことでない限り、こうやって連絡を取り合うのは、確かに必要なことだろう。

 『こっちは事務所に来たところだけれど、そっちは今、どこにいるの』

 「今、どこにいるかって、・・・弥生のところだけど」

 俺は台所の方に視線を向けた。俺が電話に出たところで、弥生は食器を片づけて皿洗いをしている。会話を聞いていないようだ。耳をすませている可能性もあるが。

 実は、俺と恭子の関係も、微妙なところにある。

 弥生とよりが戻っていったと同時に、恭子との関係も進展していたのだ。恭子はもちろん弥生のことを知っているし、弥生も俺が恭子とどういう関係なのか、嗅ぎ付けている気配がある。

 このまま、甘い幻想が続くとも思えない。俺はいつか刺されるのではないか。自分がろくな死に方をしないだろう事は、未だ漠然とだが分かっているので、そういう死に方で構わない、と思う。愛想を尽かされて去られ、骨を拾ってくれる人間がいないままに床の上で終えるのも、俺の死に方としては上出来の部類だろう。

 そんな思いが一瞬頭をよぎったが、すぐに消し去った。代わりに、恭子の声が耳から飛び込んでくる。

 『なら、すぐに来て』

 「依頼人か?」

 『いいえ。あなたを訪ねてきた人がいるの』

 「誰だ」

 『あなたには面識がないと言っているわ。けれど、あなたはその人をよく知っている。私もね』

 「謎かけだな。分かった、誰か芸能人が、俺に熱い思いを告げたいとやってきたんだな」

 『そんな訳ないでしょう』

 俺の冗談に呆れ果てた様子なのはともあれ、恭子の言葉は彼女らしくもなく、妙に歯切れが悪い。

 『とにかく、あなたが来るまでの間、私が接待しておくから、すぐに来て。そうすれば全て分かって貰えるから』

 「分かった。すぐに行く」

 電話を切ると、俺はベッドの周りに散らばっていた衣類を回収しようとして、弥生がテーブルの側に畳んでおいてくれたのに気付き、それを取った。

 「仕事か?」

 台所から弥生が声を掛けてくる。

 「ああ。客が来ているみたいだから、もう行く」

 「そう。・・・何かあったら、連絡してくれよ。できる限り力になってやるから」

 俺は服を着終えると、弥生を片腕で抱き寄せて、もう一方の手で、眉間にデコピンをくらわせてやった。「いたっ」と、弥生は涙目になってしまった。ちょっと強すぎたか。

 「生意気言って。それはこっちの台詞だろう?ちょっと前までは、自分にはもう所長なんて無理だ、何て言っていたくせに」

 「もう。知らない」

 拗ねて腕から逃げ出そうとする弥生を抱え直すと、こちらへ顔を向けさせて、眉間に軽くキスした。

 「じゃあ、行って来るから」

 「・・・ねえ」

 放そうした腕を、弥生の手が止めた。

 「眉間。赤くなっていないか、もう少し、よく見てくれないか?」


 客を待たせているのは弥生も分かっているので、五分ほど「よおく見た」後に、俺は弥生のマンションを後にした。

 マンションから事務所までは歩いて二十分もかからない。さほど客を待たせることにもならないだろう。

 と、予定通り二十分で、海沿いにある事務所に到着した。

 扉を開けようとして、はたと気付いた。いつもなら、扉から漏れている室内の光が、ない。

 (しまった)

 扉の側の壁に背中をへばりつかせた。慎重に中の様子に耳を傾け、周囲の様子を見やる。

 もし“客”ないしはその関係者が中で待っていたとしたら、俺の到着は向こうに気付かれているだろう。迂闊だった。

 いや、それよりも恭子はどうしている?中にいないのか、それとも中にいても明かりを点せない状態なのか。

 これだけ警戒しておいて、実は電気代未納による停電、というオチだったら笑えるのだが。

 懐のグロッグ(俺の愛用の銃だ。どうして民間人が銃を持っているのかは秘密)に手を伸ばしつつ、俺はまず慎重にかつ迅速に扉を調べた。中の明かりが灯っていないのに驚いて、慌てて扉を開けた途端、仕掛けられた罠が作動する、という確率はなきにしもあらずだ。

 どうやら扉には何も仕掛けられていないようだった。扉に手をかけ、一気に開ける。

 ・・・何の反応もなかった。

 「恭子」

 返事はない。

 罠がないか警戒しつつ、慎重に足を進めた。

 電気がつかないのも当然だった。電灯が全て割られていたのだ。代わりの電灯は恭子が買い置きしてくれていたが、それを取りに行って替えている場合ではなかったので、懐中電灯を探してそれを点けた。

 中はやはり惨状となっていた。罠は仕掛けられていなかったが、冷蔵庫やベッドなどの大きな家具が移動したり、中の物が床に散乱したり、等ということはないものの、テーブルは倒れているし、壁には何か物を投げたらしい跡がある。

 そして俺は、床の隅で重大な物を発見した。

 恭子がよく使用している髪留めだ。

 長い髪をポニーテールにしている恭子だが、この髪留めは昨日は使っていなかった。ということは今日、これを付けてきたことになる。

 しかし、髪留めの主はここにいない。

 「・・・う・・・」

 顔を上げた。確かに今、誰かの声が聞こえた。それも、すぐ側でだ。

 「どこだ」

 と尋ねるまでもなかった。ベッドと壁の狭い隙間から、長い、誰かの髪が覗いていたのだ。

 光沢のあるブロンド。

 ・・・予感がした。

 「おい」

 助け出して、そのままベッドに寝かせた。年の頃は十代後半。いや、十八。

 やはり、彼女だった。

 怪我はなく、気絶していただけのようで、軽く頬を叩くと、すぐに瞼を開いた。

 左右で色の違う瞳が、こちらを見る。目の中に怯えがあった。

 「・・・あ」

 「大丈夫だ、プリン」

 プリシア、と言うつもりが、プリン、と呼んでいた。落ちつかせるように、その白い頬にそっと手を添える。

 「何も心配はいらない。もう大丈夫だ」

 「はい。あのう」

 「どうした」

 「どうして、あなたは私の名前を知っているんですか?」

 無邪気な目で、こちらに向かって小首を傾げているのは、プリシアの動作とは似ても似つかない、俺のよく知っている、プリンのものだった。

 嫌なことが起こる、と思った。予感ではなく、直感で。




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