行程は、うまく行っているとは言い難かった。
まず、身に着けているプラグスーツが、歩行に適していなかった。建築的にも最新の技術が使われていたジオフロントとは違い、ひたすら続く砂浜はただでさえ歩き難い。まあ、靴と違って、砂が入らないのが唯一の取り柄だった。
だからといって、海岸を離れ、内陸部に入ることは危険だった。自分のいる場所が分からなくなってさまよう可能性もあるし、何より、ふたりは目覚めてから、一滴の水も口にしていないのである。海岸沿いに歩いて川を見つけるのが、最重要事項となっていた。
そうすれば、同じように水をもとめる人達に遭遇するかもしれない。それが、ふたりの望みの綱だった。もしも、人が見つからなかったときのことは、ふたりとも口に出さなかった。
しばらくして、日が昇り、天を通り過ぎていくのがわかったが、そのころには灰色の雲が空一面にかかり、光は射し込んできそうになかった。それでも常夏の国らしく気温は上がる。
「蒸し暑いなあ」
シンジがその言葉を口にしたのは、この日で二十三度目だった。アスカは返事をしない。ただ、黙って歩いている。
「アスカは暑くない」
「しらないわよ」
口を開けば、ひどく不機嫌である。
「ああ、もう、川はどこなのよ」
突然、しびれを切らしたかのように叫んだ。
「もういや、この暑苦しい天気も、うっとうしいプラグスーツも、汗臭い体も、ばさばさに乾いた髪も、全部いや。早く帰りたい。帰りたいのよ」
力の限り蹴られた砂が、シンジの顔にかかる。思わずシンジがせき込んだのに、アスカは慌てて言った。
「シンジ、・・・」
「・・・いいよ、別に」
シンジは砂を払いながら、うつむいていった。
「別に、いい」
「・・・あたしが先に切れていたら、なんにもならないか」
アスカはつぶやいて、その場に座り込んだ。
「すこし休ませて。疲れた」
その言葉に文句が言いたかったのか、シンジは口を開きかけて、また閉じた。
おもえば、アスカは入院していて、ろくに栄養も摂っていなかった身なのである。体力がないのは当然のことだった。
「そうだね、もうそろそろ日も暮れそうだし、休もうか」
となると、どこか休む所が欲しかった。が、そのような場所はどこにも見当たらない。せめて、毛布の一つでもあればいいのだが、草一本生えていない空間で、そのようなものが落ちているわけがなかった。
仕方なしに、潮風がまともに当たらないような場所を選んで、寝転んだ。
「シンジ」
と、離れた所で同じように寝転んでいたアスカが、声をかけてきて、シンジが半ば入っていた夢の世界から引き戻した。
「何?」
「あんた、もし、元の生活に戻れたら、まず何をする?あたしは部屋の模様替えがしたいけど、シンジは?」
その質問に、シンジは目をしばたかせた。
「元の生活、って?」
「元の、ミサトの家で暮らしていた生活よ」
「アスカは、ミサトさんが嫌いだったんじゃないの?」
意外そうなシンジの言葉に、アスカは天を睨み付けた。
「嫌い。あんなにだらしないのに、あたしの加持さんを奪った女だもの。・・・まあ、今考えると、あたしもミサトのこと、もう少し分かってあげられたのにな、と思う。ほら、ミサトもあたしも、同じ人が好きなのに、その人を失ったわけじゃない。だから、連帯感、と言ったら変かもしれないけれど、少しは力になってあげられたかな、って」
いったい、何がアスカをここまで変えたのだろう。いささか怪しんで彼女を見るシンジに、「でも」と続ける。
「あたしがただの片思いであるのに比べて、ミサトは大切な恋人を失ったのよね・・・」
シンジは、だまったまま、指で唇をなぞった。舌先で少し指をなめると、ついたままの砂が入った。
“大人のキスよ。帰ったら続きをしましょう”
帰らないから、いや、帰れないからこそ、彼女はあんな事を言ったのだ。
目を閉じた。
「帰ったら、真っ先にしたい事があるよ」
「何なの」
「ミサトさんに、ただいま、って言うんだ」
「・・・そうね」
そのまま、二人は眠っていった。地面からの冷えのせいか、深く眠れず、何度か起きたが、それでもどうにか夢を見る。
「何なのよお」
アスカの絶叫に、シンジは目を覚ました。朝だ。とっくの昔に日は出ていたが、相変わらず、雲は切れることがない。かといって雨も降らないし、まあ、気温の高い日本では、いい天気といえる。
「もう、くすぐったいじゃない」
と、シンジはアスカの方を見て、そのまま、言葉が出なかった。雑種だろうか、茶色い犬がアスカの顔を舐め回していたのである。
「アスカ、それ・・・」
「わかってるわよ。でも、もう少し感動的な遭遇でもいいじゃないの。まったく、気分をそがれるわね」
「いや、そうじゃなくって」
「何よ」
「その犬、今までどうしていたと思う」
ふたりはみつめあった。シンジは半身を起こしたまま、アスカはしゃがみこんで、犬を抱えたまま。
「弱ってはいないわよね」
「ということは」
「ちゃんとした生活をしていた」
「ということは」
アスカは、相手が犬ということも忘れたのか、首根っこを押さえた。
「ちょっと、おまえ、どこから来たのよ」
苦しそうに、アスカの手から逃れた犬は、たちまちのうちに、ふたりが進もうと思っていた方向へ逃げていった。
「ちょっと、こら、待てってばあ」
アスカがあわてて、その後を追いかけていく。シンジもその後に続くが、何分起き抜けなので、あっという間に犬は消えてしまった。
が、追いかけた目的は達成された。
少し走った先に、川があったのだ。海岸沿いだったからだろうか、広い川だった。かつてはもっと幅が狭く、底もコンクリート詰めにされていたのだろうが、今では百メートルほどの幅があり、コンクリートもすっかり剥ぎ取られ、下の土がむき出しになっている。
その合間合間に、苔らしき緑の物体がすでにこびりついていた。実際のところは、流されるのを覚悟で側まで行かなければわからないが、確かに苔のようなものに見えた。
「飲めるかな」
この川を渡るのは困難だ。もし飲めなければ、死ぬ。
慎重に岸まで下りる。アスカが、両手を水に浸した。手をお椀の形にしてすくいあげ、一気に飲む。
一瞬、遠くを見るような目をしたアスカは、次の瞬間、ふたたび水をすくいあげ、飲み干した。何度も何度も飲むアスカの様子に、シンジもたまらずに水をすくう。
ふたりとも、必死に水をのみ、また顔にかけた。が、この川は浅くないので、できるのはそこまで。
しばらくは放心状態で、岸辺に座り込んでいた。
「今なら、おぼれ死んだっていいや」
「あたしも、今だけは水太りしてもいい」
水が見つかった、というだけで、ふたりとも、ものすごい難事業を成し遂げたかのような、脱力感を得てしまった。
それからは上流に行くことにしたが、その日は歩いては休み、休んでは水を飲み、と、昨日に比べると進む距離はずいぶんと少なかった。
生水を飲んでいるという恐怖感はあったが、それでも、飲みたい、という欲望にはかなわなかった。
次の日からは元どおり、休むことも少なくなったが、少しずつ、周りが変化していった。
まず、川原で、草が見つかるようになった。食べられるかどうかは疑わしかったので摘まなかったが、水に続く不安、食べ物を得られるかという問題を、ふたりの心から和らげてくれる役には立った。
動物も見つかるようになった。といっても、犬のような、そこそこに大きいものは見つからなかったが、虫はいたるところで見つかったし、鳥が飛んでいるのを見ることもあった。
さらに、人工物も拾った。最初はコンクリートのかけらだったり、プラスチックの破片だったりしたものが、その内、コップぐらいならいつでも拾えるようになった。家が丸々残っているのも珍しくなかった。おかげで体を洗えるようになったし、夜に地べたで眠る必要もなくなったが、ふたりとも、そこに留まろうとはしなかった。
空は晴れる様子もなく、ふたりは進むしかない。
誰もいないから。
・・・シンジは、あぶったハムを口にし、水で流し込んだ。アスカも缶詰の鰯を食べている。
プラグスーツは、とっくの昔に着替えていた。が、捨てる気にはなれなかったので、それぞれ、袋の中に入れて、苦労して運んでいる。
もう、川を上って、一週間になる。
「シンジ」
缶詰を捨てると、アスカは言った。
「元の生活に戻れたら、何がしたい?」
アスカのこの質問は、毎晩のことになっていた。対するシンジの答えの方は、毎晩変わった。
「とりあえず、まともなご飯が食べたい」
「でしょうね。あたしもそう思う」
立ち上がると、アスカは眠る支度に入っていく。
「歯、磨きに行くわ。おやすみ」
「おやすみ」
見知らぬマンションの一室だった。この辺りはかなりの傾斜面で、そろそろ川の水源地にたどり着くかもしれなかった。
それでも、人がいなかったら。
どこに行っても、二人だけの世界だったら。
「・・・僕たち、まともでいられるかな」
無理。本当にそう言われたかのように、シンジは身を震わせた。
そもそも、シンジもアスカも、都会で生まれ育った身だ。こういうサバイバルの経験はない。
「サバイバル、か」
シンジには、その言葉か好きそうな、友人がいた。彼と、彼とともにいた、もう一人の友人がいた。
「ケンスケ、トウジ」
二人とも、それぞれの疎開先で、無事に生き延びているか。
トウジにあのようなことがあって以来、シンジは二人に会わなかった。ただ、ミサトを通して、二人が零号機の爆発事故の後、それぞれに疎開したことを知ったのみだ。
「こんな事になるなら、無理にでも会えば良かった・・・」
二人に二度と会えそうにない、などという事態を予測しなかったのは、シンジの浅慮さのためとは言い難かった。が、そんなこじつけで責任逃れをしたくない、と思っているようだった。
「くそ」
床を叩いた。小気味のいい音が響く。
もう一度叩く。
「こんな世界、僕は望んでいない」
もう一度。
「望んでいないよな、綾波」
もう一度。
その音に、「シンジ」との声が重なって、アスカが部屋に飛び込んできた。シンジは、うるさくしたので怒鳴られるのかと、一瞬身を縮めたが、そうではなかった。
「人がいるわ。早く来て」
その声に、今までになく反応して、立ち上がった。
続く
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