第二話 日の当たらぬ時、水のない場所






 行程は、うまく行っているとは言い難かった。

 まず、身に着けているプラグスーツが、歩行に適していなかった。建築的にも最新の技術が使われていたジオフロントとは違い、ひたすら続く砂浜はただでさえ歩き難い。まあ、靴と違って、砂が入らないのが唯一の取り柄だった。

 だからといって、海岸を離れ、内陸部に入ることは危険だった。自分のいる場所が分からなくなってさまよう可能性もあるし、何より、ふたりは目覚めてから、一滴の水も口にしていないのである。海岸沿いに歩いて川を見つけるのが、最重要事項となっていた。

 そうすれば、同じように水をもとめる人達に遭遇するかもしれない。それが、ふたりの望みの綱だった。もしも、人が見つからなかったときのことは、ふたりとも口に出さなかった。

 しばらくして、日が昇り、天を通り過ぎていくのがわかったが、そのころには灰色の雲が空一面にかかり、光は射し込んできそうになかった。それでも常夏の国らしく気温は上がる。

 「蒸し暑いなあ」

 シンジがその言葉を口にしたのは、この日で二十三度目だった。アスカは返事をしない。ただ、黙って歩いている。

 「アスカは暑くない」

 「しらないわよ」

 口を開けば、ひどく不機嫌である。

 「ああ、もう、川はどこなのよ」

 突然、しびれを切らしたかのように叫んだ。

 「もういや、この暑苦しい天気も、うっとうしいプラグスーツも、汗臭い体も、ばさばさに乾いた髪も、全部いや。早く帰りたい。帰りたいのよ」

 力の限り蹴られた砂が、シンジの顔にかかる。思わずシンジがせき込んだのに、アスカは慌てて言った。

 「シンジ、・・・」

 「・・・いいよ、別に」

 シンジは砂を払いながら、うつむいていった。

 「別に、いい」

 「・・・あたしが先に切れていたら、なんにもならないか」

 アスカはつぶやいて、その場に座り込んだ。

 「すこし休ませて。疲れた」

 その言葉に文句が言いたかったのか、シンジは口を開きかけて、また閉じた。

 おもえば、アスカは入院していて、ろくに栄養も摂っていなかった身なのである。体力がないのは当然のことだった。

 「そうだね、もうそろそろ日も暮れそうだし、休もうか」

 となると、どこか休む所が欲しかった。が、そのような場所はどこにも見当たらない。せめて、毛布の一つでもあればいいのだが、草一本生えていない空間で、そのようなものが落ちているわけがなかった。

 仕方なしに、潮風がまともに当たらないような場所を選んで、寝転んだ。

 「シンジ」

 と、離れた所で同じように寝転んでいたアスカが、声をかけてきて、シンジが半ば入っていた夢の世界から引き戻した。

 「何?」

 「あんた、もし、元の生活に戻れたら、まず何をする?あたしは部屋の模様替えがしたいけど、シンジは?」

 その質問に、シンジは目をしばたかせた。

 「元の生活、って?」

 「元の、ミサトの家で暮らしていた生活よ」

 「アスカは、ミサトさんが嫌いだったんじゃないの?」

 意外そうなシンジの言葉に、アスカは天を睨み付けた。

 「嫌い。あんなにだらしないのに、あたしの加持さんを奪った女だもの。・・・まあ、今考えると、あたしもミサトのこと、もう少し分かってあげられたのにな、と思う。ほら、ミサトもあたしも、同じ人が好きなのに、その人を失ったわけじゃない。だから、連帯感、と言ったら変かもしれないけれど、少しは力になってあげられたかな、って」

 いったい、何がアスカをここまで変えたのだろう。いささか怪しんで彼女を見るシンジに、「でも」と続ける。

 「あたしがただの片思いであるのに比べて、ミサトは大切な恋人を失ったのよね・・・」

 シンジは、だまったまま、指で唇をなぞった。舌先で少し指をなめると、ついたままの砂が入った。

 “大人のキスよ。帰ったら続きをしましょう”

 帰らないから、いや、帰れないからこそ、彼女はあんな事を言ったのだ。

 目を閉じた。

 「帰ったら、真っ先にしたい事があるよ」

 「何なの」

 「ミサトさんに、ただいま、って言うんだ」

 「・・・そうね」

 そのまま、二人は眠っていった。地面からの冷えのせいか、深く眠れず、何度か起きたが、それでもどうにか夢を見る。



 「何なのよお」

 アスカの絶叫に、シンジは目を覚ました。朝だ。とっくの昔に日は出ていたが、相変わらず、雲は切れることがない。かといって雨も降らないし、まあ、気温の高い日本では、いい天気といえる。

 「もう、くすぐったいじゃない」

 と、シンジはアスカの方を見て、そのまま、言葉が出なかった。雑種だろうか、茶色い犬がアスカの顔を舐め回していたのである。

 「アスカ、それ・・・」

 「わかってるわよ。でも、もう少し感動的な遭遇でもいいじゃないの。まったく、気分をそがれるわね」

 「いや、そうじゃなくって」

 「何よ」

 「その犬、今までどうしていたと思う」

 ふたりはみつめあった。シンジは半身を起こしたまま、アスカはしゃがみこんで、犬を抱えたまま。

 「弱ってはいないわよね」

 「ということは」

 「ちゃんとした生活をしていた」

 「ということは」

 アスカは、相手が犬ということも忘れたのか、首根っこを押さえた。

 「ちょっと、おまえ、どこから来たのよ」

 苦しそうに、アスカの手から逃れた犬は、たちまちのうちに、ふたりが進もうと思っていた方向へ逃げていった。

 「ちょっと、こら、待てってばあ」

 アスカがあわてて、その後を追いかけていく。シンジもその後に続くが、何分起き抜けなので、あっという間に犬は消えてしまった。

 が、追いかけた目的は達成された。

 少し走った先に、川があったのだ。海岸沿いだったからだろうか、広い川だった。かつてはもっと幅が狭く、底もコンクリート詰めにされていたのだろうが、今では百メートルほどの幅があり、コンクリートもすっかり剥ぎ取られ、下の土がむき出しになっている。

 その合間合間に、苔らしき緑の物体がすでにこびりついていた。実際のところは、流されるのを覚悟で側まで行かなければわからないが、確かに苔のようなものに見えた。

 「飲めるかな」

 この川を渡るのは困難だ。もし飲めなければ、死ぬ。

 慎重に岸まで下りる。アスカが、両手を水に浸した。手をお椀の形にしてすくいあげ、一気に飲む。

 一瞬、遠くを見るような目をしたアスカは、次の瞬間、ふたたび水をすくいあげ、飲み干した。何度も何度も飲むアスカの様子に、シンジもたまらずに水をすくう。

 ふたりとも、必死に水をのみ、また顔にかけた。が、この川は浅くないので、できるのはそこまで。

 しばらくは放心状態で、岸辺に座り込んでいた。

 「今なら、おぼれ死んだっていいや」

 「あたしも、今だけは水太りしてもいい」

 水が見つかった、というだけで、ふたりとも、ものすごい難事業を成し遂げたかのような、脱力感を得てしまった。

 それからは上流に行くことにしたが、その日は歩いては休み、休んでは水を飲み、と、昨日に比べると進む距離はずいぶんと少なかった。

 生水を飲んでいるという恐怖感はあったが、それでも、飲みたい、という欲望にはかなわなかった。

 次の日からは元どおり、休むことも少なくなったが、少しずつ、周りが変化していった。

 まず、川原で、草が見つかるようになった。食べられるかどうかは疑わしかったので摘まなかったが、水に続く不安、食べ物を得られるかという問題を、ふたりの心から和らげてくれる役には立った。

 動物も見つかるようになった。といっても、犬のような、そこそこに大きいものは見つからなかったが、虫はいたるところで見つかったし、鳥が飛んでいるのを見ることもあった。

 さらに、人工物も拾った。最初はコンクリートのかけらだったり、プラスチックの破片だったりしたものが、その内、コップぐらいならいつでも拾えるようになった。家が丸々残っているのも珍しくなかった。おかげで体を洗えるようになったし、夜に地べたで眠る必要もなくなったが、ふたりとも、そこに留まろうとはしなかった。

 空は晴れる様子もなく、ふたりは進むしかない。

 誰もいないから。



 ・・・シンジは、あぶったハムを口にし、水で流し込んだ。アスカも缶詰の鰯を食べている。

 プラグスーツは、とっくの昔に着替えていた。が、捨てる気にはなれなかったので、それぞれ、袋の中に入れて、苦労して運んでいる。

 もう、川を上って、一週間になる。

 「シンジ」

 缶詰を捨てると、アスカは言った。

 「元の生活に戻れたら、何がしたい?」

 アスカのこの質問は、毎晩のことになっていた。対するシンジの答えの方は、毎晩変わった。

 「とりあえず、まともなご飯が食べたい」

 「でしょうね。あたしもそう思う」

 立ち上がると、アスカは眠る支度に入っていく。

 「歯、磨きに行くわ。おやすみ」

 「おやすみ」

 見知らぬマンションの一室だった。この辺りはかなりの傾斜面で、そろそろ川の水源地にたどり着くかもしれなかった。

 それでも、人がいなかったら。

 どこに行っても、二人だけの世界だったら。

 「・・・僕たち、まともでいられるかな」

 無理。本当にそう言われたかのように、シンジは身を震わせた。

 そもそも、シンジもアスカも、都会で生まれ育った身だ。こういうサバイバルの経験はない。

 「サバイバル、か」

 シンジには、その言葉か好きそうな、友人がいた。彼と、彼とともにいた、もう一人の友人がいた。

 「ケンスケ、トウジ」

 二人とも、それぞれの疎開先で、無事に生き延びているか。

 トウジにあのようなことがあって以来、シンジは二人に会わなかった。ただ、ミサトを通して、二人が零号機の爆発事故の後、それぞれに疎開したことを知ったのみだ。

 「こんな事になるなら、無理にでも会えば良かった・・・」

 二人に二度と会えそうにない、などという事態を予測しなかったのは、シンジの浅慮さのためとは言い難かった。が、そんなこじつけで責任逃れをしたくない、と思っているようだった。

 「くそ」

 床を叩いた。小気味のいい音が響く。

 もう一度叩く。

 「こんな世界、僕は望んでいない」

 もう一度。

 「望んでいないよな、綾波」

 もう一度。

 その音に、「シンジ」との声が重なって、アスカが部屋に飛び込んできた。シンジは、うるさくしたので怒鳴られるのかと、一瞬身を縮めたが、そうではなかった。

 「人がいるわ。早く来て」

 その声に、今までになく反応して、立ち上がった。



 続く



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