第三話 点と線ばかり






 シンジがそのマンションの裏口(表口は自動ドアのため、動かないのだ)から外に出ると、アスカが、すぐ側のフェンスから身を乗り出すようにして、何かを見ていた。

 「アスカ、危ないだろ」

 「そんなこと言ってる場合じゃないでしょ。ほら、あれ」

 ふたりが昼間見た限りでは、二人の進行方向には険しい山、反対側はなだらかな下り坂があり、全体的な地形としては、いわゆるすり鉢のような形になっているのが伺える。おそらくあの海岸は、この巨大な盆地(広大な平野、といった方が正しいかもしれない)の、一番低い地帯なのであろう。

 アスカが指差したのは、二人が進んでいる方向からは左手にあたる。川はもう少しさかのぼれば二手に分かれるらしく、そちらへ支流が下っているのが見えていた。

 そして、夜となった現在、その先に、炎らしき光が数点、ちらちらと見えている。

 「・・・山火事じゃないかな」

 「雷が落ちたわけじゃなし、空気が乾燥しているわけでもなし、絶対に違うわよ」

 絶対、と言われて、シンジは少し癪に触ったのか、「ああ、そう」と言いつつ、元いた部屋に戻ろうとする。

 「ちょっと、どこへ行くのよ」

 「寝るんだよ。どうせ、明日からあの場所へ向かうんだろう。早めに寝るよ」

 「飲み込みが早いわね。・・・と言いたいところだけれど」

 アスカは、シンジが行こうとした方向に先回りして、前方に立ちふさがった。

 「あんた、本当にそれでいいの」

 「いいよ。反対しても、言い争いになるだけで、時間と体力を無駄に使うだけだし」

 「そう」

 アスカは、つい、と道をどいた。シンジが立ち去るのを見送りながら、

 「本当に、つまらない男」

 さも、汚らしそうに言う。



 朝になったが、夕べの火が、火事となって燃え広がった様子は見られなかった。それは、アスカの仮説に信憑性を加える結果となり、二人は今度は川を下る事となった。下るといっても、相変わらずもぬけの殻の住宅街やら商店街やらの中を進む。

 二人は無言だった。話題がないというより、話をする気になれない、というのが正解のようだった。

 互いが互いを嫌い始めているのに、距離を置いて頭を冷やす事ができない。

 「シンジ」

 アスカが言う。

 「どうしてあたしたち、一緒に行動しているの」

 シンジは返事をしない。

 「あんたなんか、あそこに置いてきたら良かった」

 あそこ、とは、あの海岸のことを指すのだろう。

 「ねえ、シンジ」

 たまりかねたように、アスカが立ち止まって、言った。

 「あんた、元の生活に戻りたいって、本当に思ってる?」

 シンジは立ち止まった。アスカの方を振り向き、言葉を探しているようで、いくらかの間、目がさまよっていたが、やがて、顔があがる。

 悲鳴が上がったのは、その時だった。ただし、人間の悲鳴ではない。犬の悲鳴だった。

 二人は顔を見合わせ、おもむろに駆け出した。悲鳴はやむことがなく、二人が川沿いの道を下っていくに連れ、大きくなっていく。

 「ようし、捕まえたぞ」

 続いて上がる笑い声に、立ち止まった。目の前の三つ又の道を曲がったところに、男が数人いた。他に人間がいたことに対する感慨を抱く余裕もなく、二人は慎重に角から覗く。

 年も姿も統一性のない人々だった。男たちは、自分たちの騒ぎで、近くで人間が駆けていた音を聞かなかった様だった。

 道の中央で、何かを囲んでいる。その囲まれているものこそが、悲鳴の主だった。その犬に、二人は見覚えがあった。あの、川の手前にいた、茶色い犬ではないか。前は付いていなかった首輪があるところを見ると、どうやら、飼い主の所から二度の脱走を謀ったところを、彼らに捕らえられたらしい。

 「こんな事をしたくはなかったんだがな」

 と、彼らの一人の、目立つ赤いシャツを着ている男が言っている。

 「まあ、この際だ、動くものなら何でもいい」

 「ちょこまか動いていたからな、さぞかし筋肉も発達しているだろう」

 と、これは白髪混じりの、ぼさぼさ頭の男。

 「いい足だ。かぶりつけば最高だろう」

 むきだしの腕に蠍の入れ墨をした男が、明らかに舌なめずりする。

 「早く食おう」

 それを聞いて、二人は息を呑んだ。見るからに困惑した表情を見合わせる。

 確かに、こんな緊急の事態ならば、犬だろうと何だろうと食べるべきなのかもしれない。犬を食べている文化も世界にはあるし、彼らだって飢えているだろう。

 その時、アスカが「あ」と、指差した。あの犬に、この前会った時にはなかった首輪があったのだ。

 最後の一人、杖を持った和服姿の男が、それに頷く。

 「そうだな。じゃあ、ばらすぞ」

 アスカが足音荒く飛び出した。シンジも止めなかった。というより、止められなかった。

 「ちょっと、人様が飼っている犬を食べる気!?」

 男たちは、突然少女が現れたことと、その少女が突飛な格好・・・何しろ、彼女のサイズとセンスに合った良い服が見つからなかったので、大き目のブラウスと短パン、麦藁帽子に綿の白靴下に黒の革靴、後ろにはリュック、という格好なのだ・・・をしていたことに、明らかに驚いていたが、すぐに、

 「ちょっと待ってな。お嬢ちゃんにも分けてやるから」

 との返事がきて、たちまち、アスカの眉が上がった。彼女は何よりも、自分を子供扱いされるのを嫌っているのは、ご承知の通りである。

 「そんなことを言ってるんじゃないわよ。よく見てみなさいよ。首輪がついているっていうことは、人が飼っている犬だっていう事じゃないの。人のペットを殺して食べたりしたら、立派な犯罪行為でしょう。そんなことも分からないの」

 「今のご時世だぞ、犯罪行為も何もあったもんじゃないだろう。何だったらお嬢ちゃん、警察を呼ぶか?一一〇番通報すれば、すぐに駆け付けてくるだろうさ」

 彼らの間から笑いが起こり、対するアスカの肩がふるえた。

 「・・・何が嫌いかって、自分のまわりの状況がちょっと変わったぐらいで、簡単に罪悪感を無くせる大人が、あたしは一番嫌いよ。本当、最低で卑劣であきれ果てるわ。あんたたちなんて、その犬の餌にさえふさわしくない。いえ、餌になんかしたら、その犬の方で迷惑するんじゃないの」

 「おい、その小娘を黙らせろ」

 着物の男が、そう言いながら犬の首根っこを捕らえようとしていた。ところが、犬は急に起きあがって、男の手にかみつく。男は悪態をつきながら殴りつけた。犬は数メートル吹っ飛んだ上に、壁にぶつかって、落ちた。

 「やめろ」

 シンジがそう叫んで飛び出したのは、一同の真後ろ、・・・アスカが現れたところからはまったくの反対だった。どうやら、アスカが言い争っている間に、背後に回ったらしい。アスカでさえも、シンジは自分の背後の角で隠れているとばかり思っていたので、目が丸くなった。ましてや、男たちはシンジの出現など、予想もしていなかったので、一瞬、呆気にとられる。

 その一瞬で、シンジは犬をかかえて逃げ出すことができた。少々大きい犬だが、彼一人でかかえるのは訳がない程度だ。

 「野郎、この小娘の仲間か」

 四人のうち二人、・・・赤シャツと和服姿の男がシンジの後を追い、残る二人がアスカの前に立ちはだかっていた。

 「どきなさいよ」

 「そういうわけにもいかないな。どいたら、あの小僧の後を追うんだろうが」

 「なあ、早く黙らそうぜ」

 入れ墨の男が、落ちつかない様子でいう。

 「足に一発撃ち込めば、おとなしくなるだろう」

 「まあ、それが妥当な線か」

 一発撃ち込む、という言葉がささやかれた時から、アスカは二人の内、白髪混じりの男に少しずつ近づいていった。よく見てみると、入れ墨の男がジーンズの中にシャツを入れているだけなのに対して、白髪混じりの男は古着屋に持って行っても買い取って貰えそうにないぐらいに古い背広を着ており、特にズボンの右ポケットに何か入れてあるらしく、膨らんでいるのが分かる。アスカは背中のリュックを、ゆっくりと手に掴んだ。

 男がポケットから何かを取り出そうとした瞬間、アスカは一気に男の懐に飛び込むと、五キロはあるだろうそのリュックを、男の手首に打ち下ろした。思惑通り、男の手から銃が弾け飛ぶ。アスカは落ちる前にその銃を掴むと、全力でシンジが去ったほうに駆けて行った。

 「くそ」

 アスカは、走りながら銃の安全装置をかけた。リュックは再び背負い、あちらこちらの曲がり角を曲がって、坂を少しずつ「上って」いく。



 アスカの考えはこうだ。

 シンジはおそらく、道を下っていっただろう。それなら、自分は上っていくしかない。

 もちろん、ただでさえ少ないこちらの戦力も分断されるが、同時に、相手の数も減る。相手が減れば、各個撃破するのはたやすい。

 それに、自分と一緒にいたのでは、シンジは判断をこちらにゆだねてしまい、とっさの時の行動ができなくなる恐れがある。そうなると、今のシンジは彼女にとって、足手まといでしかならなくなる。無茶なようだが、一人にさせてこそ、自分の思考を最大限に使うだろう。

 何より、このまま坂を下れば、間違いなく人がいる場所へ逃げ込める。そこまで頭が回らなくても、あちらから騒ぎを聞きつけて、駆けつけてくれるかもしれない。

 問題は、坂を上っていく、自分自身だった。こちらの二人組は、彼女自身が何とかしなければならない。

 しばらく上ると、彼女の記憶通り、道は駅を中心にした、ビル街にはいった。ビル街といっても、実体は五、六階建ての小さなデパートが密集しているだけの、商店街である。

 「あんたは馬鹿かもしれないけれど、ただの馬鹿じゃないって、あたしは知っているんだからね。頼んだわよ、シンジ」

 つぶやくと、アスカは迷わず、ビルの間に入っていった。



 シンジは、邸宅と言っていいだろう、広い家の壁にもたれていた。住むには充分な広さだが、隠れるには少々狭い家だ。中にいるのが気づかれたとき、簡単に出口がふさがれてしまう。

 腕の中の犬は、足を切られたか何かされたのだろう、血が出ていた。先程までは派手に流れていて、貧血気味のようだったが、今はシンジが学校で習った限りの止血の方法が施され(ただし人間のためのものだったので、犬に通用するかは少し謎だったが)、とりあえずは傷口に布が巻かれている。

 二人組がどこかへ行ってしまったのを見計らって、シンジは邸宅を出て、別方向へと走った。できるだけ、坂を下へ、下へと走っていく。

 怪我をしている犬をかかえた状態で、大人二人を振り切るのは不可能に近い。何か、手を打たなければいけなかった。

 ふと、住宅街がとぎれた。この住宅街の端に出てしまったらしい。道は広々と並木道になって続いており、右前方に、白くて大きな建物が見える。市立病院、という文字が見えた。

 「そうだ、その手がある」

 つぶやいた。



 続く



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