入れ墨の男は、真後ろにおいてあった回転棚をつかんだ。男が引き倒したとき、そこに隠れていたアスカが飛び出した。要するに、試着室にいるふりをして、その後ろの棚に潜んでいたわけである。
「よくも、後ろから撃つような真似ができたな」
「へえ。あんたたちみたいなのでも、人を殺すときはマナーを守るの」
アスカが馬鹿にしてやると、男は「うるさい」と手にしていた金属の棒で台を殴りつけた。
「こっちへ来いよ」
余っている左手で手招きする。
「こっちへ来て、おまえが殺した男の顔をよおく見ろよ。別に、また動き出したりはしないんだからよ」
「嫌」
アスカは銃を構えた。
「脅しじゃないのは分かるでしょう。そのはさみを捨てて」
「へえ」と、男はへらへらと笑った。
「もう、そっちがその銃をズドンと撃てば、こっちは簡単に三途の川へ行けるんだ。どうして、こんなはさみなんかを怖がる?」
「考えが変わったのよ」
「ほう、どういう風に」
「殺す」
男の勘がかなり鋭いのは、この至近距離で見事に銃をかわした事で明らかだった。
「ガキめ、・・・」
アスカは男の悪態など聞いてはいなかった。男が伏せた隙に、ブラウスの棚の影へ姿を消したからだ。
「殺してやる」
男は笑っていた。「望み通り、殺してやるよ。殺せば、おまえなんかただの肉の固まりなんだからな。そうなればどうなるのか、分かっているよなあ?」
アスカは男の様子をうかがいながら、この男はそういう趣味なのか、と眉をひそめた。どういう嗜好を持つのかは各人の自由なのだろうが、むざむざ殺されてあちらの好き勝手にされる気は彼女にはない。
さすがに銃を警戒しているらしく、男は柱や物の陰から陰へとすばやく移動する。身のこなしからして、かつては熱心に体を鍛えていたに違いなかった。
デパートの中は物音一つせず、彼の動く音だけが響いている。アスカは手の中の物を握りしめた。
瞬時のこと、男の足下に紐が張られた。男は巧みな足さばきで転ぶのを回避し、紐の先の一方である、ノースリーブのブラウスが掛けられた棚を引き倒す。
アスカはそこでしゃかんでいた。男の方に構えようとする両手で握っていた物を、男は棒ではじき飛ばす。それは何メートルも向こうに飛んでいき、アスカの口元が引き締まるのが、わずかな光でもよく分かる。
男は心の中で凱歌を上げていただろう。もはや呆然と彼を見上げたまま床に座り込み、背後に何かないか、手をまさぐっている少女をとりあえず黙らせようと、棒を放って、脇腹を蹴りつける。とっさに身を引いていたものの、それでも痛そうな声を出す。
足の動きを封じながら顔を殴り、
「終わりだなあ」
と言いながら、腕を折ろうとしたとき。
アスカは背後に回していた腕を、自分から手前に持ってきた。・・・銃を突きつけて。
「そっちがね」
先程彼女が持っていた物は銃ではなかった、ということに男が気付いたのは、自分の腹に穴が空いたときだった。激痛に悲鳴を上げながら倒れ、なおも死にきれずにもがく。その手がアスカの足をつかんだ。
アスカはその力の強さに、一瞬ひるんだ。彼女の唯一の武器と思われているだろう、銃に似せたもの・・・裁断用の大きなはさみを、それらしく布で巻いただけである・・・をわざと飛ばせて、油断させたところを隠していた銃で撃つ、という構想はどうにか成功してくれた。が、男は先程死んだ白髪頭の男のように、あっさりと死ぬはずだったのだ。
彼女は今までにも一度、エヴァで人を殺したことがある。とはいっても、アスカが殺したのは彼女が叩き落とした戦闘機などの中にいる人間であり、彼らは一瞬で炎の中に消えている。こんな風に、血を流したりはしなかった。
それが、今死のうとしている男は、彼女の足を執念深く掴んでいる。
(引きずられる)
何かないか、今度は本気で手元をまさぐった。先程男が放った金属の棒が指先に当たり、アスカはそれを掴み、振り上げた。
何度も打ち下ろす。男はアスカが叩いても叩いても、動くのをやめず、手を離そうともしない。
(助けて)
男を殺そうとしているのは彼女自身のはずなのに、いつしか彼女は心の中で悲鳴を上げていた。
(助けて、ママ)
「はい、これでよし」
そういいながら、原はリュックの紐を締めた。病院の薬は、これであらかた持っていくことになる。
「時田さん、そのリュック、持ってね」
「はい。・・・陸奥君は?」
言われて、原は顔をあげた。確かにいない。
廊下に出て大声で呼ぶと、一分も経たずに陸奥が現れた。その手の中にあるものを見て、原と時田が声をそろえた。
「レオだ」
三人ともこの犬を見慣れていたが、今、この犬は鳴くこともせず、陸奥の腕の中でろくに動きさえしなかった。出血していたらしく、誰かが足に布を巻いている。
「屋上への階段の下に、揃えて置いてあったんですよ。おかしいと思って屋上を見たら、シーツの下に隠れていました」
「隠されていた、という方が正解かも。まあ、よく見つけられたものね。偉い」
原は何故か顔をうつむかせている陸奥からレオを受け取ると、慎重に調べていった。沈黙した原に代わるように、時田が尋ねる。
「その、置いてあった靴は?」
「元の所にありますよ」
それを聞いて、時田は部屋を出て行く。陸奥は原のところに行こうとしたが、先程と打って変わって真剣な顔付きになってレオを診ている原の、
「時田さんの後を追いなさいよ」
という言葉に急かされるようにして出て行った。
陸奥が追いついた頃には、時田は早足で階段まで来て、問題の靴の所でしゃがんでいた。
「普通の靴ですね」
確かに、中高生辺りが普段使っていそうな、黒の革靴だ。少し大き目だったのか、底敷きがある。時田は手に取り、様々な角度で靴をながめると、おもむろに底敷きを引き抜いた。
「ありましたよ」
何と言うことはない、という調子で言った通り、底敷きの裏に、マジックで文が書いてあった。
「アスカへ あの犬は屋上のシーツの下に、僕のリュックは805号のベッドの下にあるので、しばらく預かってて欲しい。 シンジ」
「行ってみます」
陸奥は階段を駆け上がり、たちまちの内に消えた。
「おお、速い速い。うっかり転んで頭を打ったりしないといいが」
とつぶやいた矢先に盛大に転んだ音が聞こえてきた。
「・・・ま、彼のことだから、致命的な傷を負うことだけは避けるでしょう」
そうして、靴を持ったまま、原のいる部屋まで戻ってきた。
「どうです、レオの様子は」
「血が止まってはいるから、命に別状はないでしょうね。後は本職の岩村さんに見てもらわないと」
かすかに微笑んだ。それを見て、時田もゆっくりと安堵の溜息をもらす。
「それを聞いて安心しました」
「娘さんに怒られないで済みます?」
ようやくそこで時田の方を見た原の笑い声と、「戻りましたあ!」という陸奥の声が重なった。「早い」と二人は揃ってつぶやく。
「そりゃもう、全力ですから。それよりありましたよ、リュックサック」
彼らが運搬用に持ってきたリュックよりはさすがに小さいものの、単体で見たら、十分に大きく見えるだろう。そんなリュックだった。
「中身を見ましょうか?」
「待って。何が入っているか分からないでしょう。外で見ましょう」
原は、レオを横目で見ながら言った。異存はなく、三人は外へ出ることにする。
「でも、この、アスカという人が運悪く通りかかったら、僕たちはただの泥棒ですね」
「それは考えない。どっちにしろ、危険なものが入ってなかったら、リュックは我々のところで預かってますから来てください、って、病院の入り口にでも張り紙をしておけばいいだけでしょう。・・・確かに、それでも泥棒だと言われれば、否定できないけれど」
「・・・とりあえず、張り紙は書いておきます」
適当な紙を回収して、陸奥は癖のある大きな字でその旨を書いて、病院の入り口に張った。
かくして、こそ泥予備軍の三人と一匹は(レオは時田が抱えていた)、裏の駐車場でリュックを開けた。数分後、あれこれと中身を見て、原と陸奥は緊張を解いた。
「良かった。危険な物は入ってないみたい」
「そうですね」
そうして顔を上げた二人ははじめて、時田が先ほどの原に劣らないぐらいの真剣な顔で、荷物の中にある、奇妙なスーツを睨んでいるのを見た。
「時田さん・・・?」
陸奥の声に、時田は、「あ、ああ」と、口ごもってから、
「いえ、昔、似たような物を見たことがあったので。どこで見たのかなあ、と思ったのですが。・・・前世紀だとは思いますが、一体、何の特撮番組でしたかね?」
「言いたくないのね」
原の言葉に、時田は「何のことです?」と首を傾げる。原は笑みを浮かべた。
「まあ、いいけどね。でもね、私たちに危険が及ぶような時まで黙っているのなら、私にも考えがあるから、そのことは覚えていて」
「そのことはもとより承知しています」
原はしらを切り通すつもりでいるらしい時田を黙って見ていたが、やがて目を背後に向けると、
「陸奥君」
と、後方にいるはずの青年に声をかけた。
「後、何が必要?」
「待ってくださいよ、・・・そうですね。後は、商店街に行けば揃います」
メモをのぞき込みながら、陸奥は答えた。「どうせ町の方に行くなら、ついでにこれも取ってきてくれ」と、リストを渡されたのである。おかげで、薬品関係は一番後回しになってしまった。
「じゃあ、行きましょうか」
「レオはどうしますか」
「そうねえ。どうせ帰りもここを通ることだし、時田さん、荷物と一緒に留守番してくれない?」
「いいですよ」
というわけで原と陸奥だけが病院を後にすることにした。
「原さん」
と、坂を上ること数分後、陸奥が声をかける。
「何?」
「時田さん、何か隠してるんでしょう。何でひとりにさせたんですか」
「大丈夫よ。時田さんに裏切る気はないもの」
「・・・信頼してるんですね」
「当然でしょう」
笑みを浮かべて言う。「人から信頼される手段はただ一つ、裏切られるのを覚悟で、自分が相手を信頼すること」
「・・・言ってて恥ずかしくないですか?」
原は顔をしかめた。
「君、絶対ハードボイルドの主人公にはなれないタイプね」
と、そこで足が止まった。
「ねえ」
陸奥に真顔で言う。
「今、聞こえなかった」
「何がですか」
とりあえずはその問いは無視された。ぐるりと周りを見回す。
「・・・気のせいかしら」
「何だと思ったんですか」
「いや、何でもないと思う。行きましょう」
うつむいたまま原は歩き始めた。陸奥もそれに続く。
五分程後、二人の足が一斉に止まった。
「気のせいじゃないわね」
「ええ。銃声、でしょう」
陸奥が答えたが早いか、原はリュックサックをその場に下ろして、中から医療鞄を取り出した。
「一体、そのリュックサックのどこにそんな隙間があったんですか」
「細かいことは気にしないの。先に行くから、後よろしく」
そうして、鞄を抱えて、長距離ランナー並の速度で坂を駆け上っていく。しばらくためらった後、陸奥も二つのリュックをかかえて、原の後を追いかけた。
目的のビルを探すのには苦労したが、数あるビルの中で、入口が開け放してあるのは一つだけだった。
二階に上がったとき、原はかすかに漂う血の匂いに、すばやく部屋全体を見回した。あちらこちらで物が倒れていて、確かにここで何かがあったことは分かる。
彼女がそれを見つけたのは、用心しながらレジカウンターの所まで行ったときだった。
更衣所の手前に倒れていた男を、彼女は冷静に看取り、そうして黙って立ち上がった。動かしたいのは山々だが、死因が死因である以上、油断ができない。
「ママ・・・」
目が丸くなった。少し動揺したのか、声の主を捜すのに数分かかってしまった。
中学生ぐらいの少女だった。髪の毛は栗色で、混血なのか、肌の色は白い。極限状態を過ごしたためか痩せこけていて、髪にも肌にもつやがなかった。あり合わせの服は破れかけていて、そこからはみ出して見える包帯も巻いてから何日経ったのか分からない。座り込んだその手には金属の棒があり、足下には拳銃、そして仰向けになって倒れている男が一人いた。それらが、全てを物語っていた。
少女はうつむいて、「ママ」と呟くばかりである。
原はとりあえず男の生死を確認すると、少女に近づいた。近寄ろうとしただけで、少女は大きく一つ震える。
「大丈夫。私はあなたのママじゃないけれど、歴とした医者よ。あなたの怪我を見るのが仕事だから。だから大丈夫」
もう一つ、大きく震えた。彼女の前に座って、脇に鞄を置いた。少女の目が少し動く。目は見えるらしい。
原は「ちょっとごめんなさい」と言いながら、少女が怪我をしていないか・・・もちろん、各所の包帯は別として・・・、調べていった。脇腹は痣ができていたが、骨が折れている様子はなかった。
「大丈夫みたいね。あなた、名前は?」
「・・・アスカ」
「そう。じゃあアスカ、行きましょう」
原が腕をとってアスカを立ち上がらせようとした時、アスカは原の首にすがりついた。
「ちょっと、・・・」
アスカは目を宙に泳がせたまま、つぶやく。
「ママ」
引き剥がそうとした原の動きが止まった。唇がわななきながら、手がアスカの背に回り、自然と抱きしめる形になる。
しかし、十秒も経たない内に、原は腕をアスカの肩において、強引に引き剥がした。
「私は、あなたのママじゃないの。ママじゃないのよ」
アスカの目が、原のそれに焦点が合わさっていく。
「立てる」
原の呼びかけに、アスカは無表情に肯いた。
元は山奥に存在する、二十一世紀に入ってからも近代化があまり進んでいない町である。事実上、この町を牛耳っているのは、とある一族であり、彼らはセカンドインパクトにも耐えた屋敷に居を構えていたのだ。
その町はサードインパクトの衝撃波からは奇跡的にそれており、あの日から一週間ほどが過ぎた今も、相変わらず、緩慢とした時が流れている。
あの、杖を持った着物姿の男が、一人の少年を担いだ赤シャツの男を連れてその屋敷の門をくぐったのは、夕刻のことであった。とはいえ、ここ数日の曇り空で、空は赤くなることなく、ただ、暗くなっていくのを待つばかりなのだが。
二人は玄関まで来ると、どこかでにぎにぎしく物音がしているのを聞きながら「御免下さい」と言った。
間もなく、一人の老婆が現れた。着物を着こなしているのが、その歩いてくる様子でよく分かる。老婆は二人の姿を見ると、「ありゃあ」と言いながら、薄く笑った。
「何の用かい。おまえさんたち、数が減ったようだが」
「来ていないのか?」
「ええ、ええ。こちらには、隠す所以なぞない。待つなら、奥に通そうが」
「いや、いい」
四人は仲間というわけでもなく、利害が一致したため共にいたのであり、何かあり次第、すぐに別れてしまうような間柄だ。だから、二人は入れ墨の男と白髪頭の男に何があったのか、考えようとさえしなかった。
「代わりに、ここに置いてくれ」
「ほう。というと、何か良いものを持ってきたと?」
「これだ」
赤シャツの男が、肩に担いでいた、気絶したままの少年を老婆の横に下ろした。
「言っておくが、生きている。上玉だろう」
「やや」
老婆は、傍目には滑稽とも思えるほど目を開き、少年の顔をのぞき込んだ。その後、腕をむんずと掴んだり、顔をさわったりしていた間、気絶したままだったのは、彼の幸運だったのかもしれない。やがて老婆は満面の笑みを浮かべた。笑みだけ見ていると、なかなかに人が良さそうではある。
「確かに、引き取ろうか。早速、おまえさんたちの部屋を用意しようか。何か食うかね」
「ああ。それと、銃はもうないのか。自動式の拳銃を奴らが持っていったままだ」
「それはちいと、そちらに都合がいいが、・・・まあ、その分、飯が減るからね」
「もちろん、それで構わない」
「では」
そう言うと、老婆は手をたたいた。まもなく屈強な男が数人現れ、そのうちの一人が少年を軽々と抱えて奥へ引っ込む。
「それにしても、あの小僧をどうするつもりなんだ」
「おや、お前さん方、そんなことが気になるかね?」
大げさなくらいに目を見開くと、愉快そうに笑った。
「あれは器量がいい。すぐに買い取りがつくだろう。さ、部屋ができるまで、こちらへ待ってもらおうかね」
そうして、ひょこひょこと歩く老婆の後から二人は廊下を曲がり、玄関から消えた。
時田がレオをかかえて病院の木陰に座っていると、坂の上の方から、「時田さあん」と、呼びかける声がした。見る間でもなく原と陸奥である。よく見ると、陸奥が誰かを背負っているのが分かったようだった。
「薬はどうでしたか」
「ちゃんとあるよ、ほら」
原が陸奥の持っている手提げ鞄を指さした。アスカを拾った後で、改めて陸奥と薬を回収したのだ。
「で、そちらはどなたですか」
「アスカさん。なかなかに将来有望でしょう」
時田はその言葉に、アスカをの顔をじっと見ていたが、やがて顔を上げると落ち着き払っていった。
「まあ、確かに器量だけなら、うちの娘といい勝負かもしれませんね」
「・・・親が対抗意識燃やしてどうするのよ」
「親だから燃やすんですよ」
三人の会話などどこ吹く風とばかりに、アスカは陸奥に背負われたまま、深い眠りに入っていた。
続く
第四話に戻る
感想はメールか訪問者記録帳までお願いします。