第六話 今日も上天気、とは言い難し





 身を裂かれた。

 腹に鋭い物が突き刺さり、胸をえぐられ、血が飛び散り、喉が破れ、・・・

 絶えることのない痛みに泣き叫ぶことさえも許されない。もう、体のどこが存在し、どこが失われたのか分からない。

 (殺してやる)

 空洞になりかかっている頭の隅で、アスカはそう思った。

 自分の体ならまだいい。この痛みは、母の痛みなのだ。

 喰われているのは母だ。

 (殺してやる)

 アスカは頭の中で、自分に襲いかかっているものたちが、自分の手にかかって死んでいくのを思い描いた。倒れる物体に向かって、アスカは手の槍を打ち下ろす。

 気がつくと、そこはデパートの中だった。記憶のそれよりもずっと暗い室内で、何度も振り上げる。打ち下ろす。

 何度も振り下ろしても、男は動く。それどころか手がもがいて、アスカの足をつかむ。

 (早く死んで)

 アスカの心を読んだかのように、男が血にまみれながら顔を上げ、その目がアスカのそれと合う。

 「早く殺せよ」

 そう言いながら血の泡を出す。アスカの手の動きが止まった。

 「・・・嫌、嫌よ!」

 アスカは泣きながら男の手から逃れると、あさっての方向に駆け出した。男を殺したくなくなったのではない。走りながら、いつしかシンジに言った言葉を思い出した。

 (戦いは常に、無駄なく、美しくよ)

 そう思っていたのは本心からだ。・・・ただ、醜く死んでいくところを見たくなかった。

 母のように。

 アスカの記憶に辛うじて留まっている、生前の母は美しかった。まだ何も知らない頃、母と父と自分、三人の家庭の中で、母は優しく自分を見つめ、抱きしめてくれた。傍らの父も笑いかけてくれた。その母がベッドの中で、次第に痩せ衰え、醜くなっていくのは耐えられなかった。

 母の死体は醜悪だった。暗い天井から垂れ下がっているロープ。ロープが食い込んでいる首。母の死に顔。同じように垂れ下がっている人形。全てが耐えられなかった。

 一番耐えられなかったのは、もう母は自分を見てくれないこと、抱きしめてくれないことだった。母はあの人形をアスカだと思っていたのだから、唯一最後まで自分を慕ってくれた娘と死ねたと思ったことで、安らかに眠れたのだろう。だが、残されたアスカはもう一度、母に温かい目を向けて欲しかった。自分の言葉を聞いて欲しかった。

 母が現実に戻ってきて、笑ってくれたらそれだけでもよかったのに、もうその願いは叶わなかった。もう、母は笑ってくれない。

 彼女を救ってくれるはずの父の笑みは、いつの間にか他の女に、よりにもよってアスカが信頼していた、母の主治医に移っていた。それからは父とも、父の女とも歯車がかみ合わない。

 「私、早く子供が欲しいの。まだその年で、って思うかもしれないけれど、私から見れば、もうこの年、なのよ。早いに越したことはないわ」

 「無理することはないだろう。大体、私たちにはアスカがいるじゃないか」

 「あなたには悪いですけれど、私、あの子の母親だ、って思ったこと、一度もないのよ。甘えてこないし、私のこと、笑いもせずにじいっと見ていて、気味が悪いぐらい。やっぱり、母親の影響でしょうね。その内、あの子も母親みたいになるんじゃないかしら?」

 「おい・・・」

 「あら、人工受精でとはいえ、見知らぬ男との子を産んだ女を弁護する気なの?私から見たら考えられないわ。だって、愛している人との子供を産みたいじゃないの。遺伝子がどうのなんて、愚の骨頂よ」

 「・・・」

 「あなた、あの子を本心から自分の子として可愛がれたこと、あるの?」

 「・・・ない。一度としてない」

 「でしょう?だから、私たちで、普通の、温かい家庭をつくりましょう。私たちならできるわよ」

 「そうだな。君の言うとおりだ」

 (あんたたちなんて、もう親じゃない)

 それを口にすれば、たちまちにアスカの周囲は怒号と誰かの決めつけで固められるのは分かり切っていた。

 曰く、父親を取られたという思いこみ。曰く、第一次反抗期。曰く、子供によくあるわがまま。曰く、・・・

 だから、時が経つにつれて、アスカは二人に調子を合わせて笑うしかなかった。

 (今、あたしはどんな顔をして笑っているんだろう?)

 その疑問が浮かばなかったのは、ドイツでも日本でも、気の合う友人と一緒にいるときだった。アスカはヒカリに感謝している。ヒカリの前なら無理をして笑わなくても良かったし、ヒカリの前なら気兼ねしなくとも良かったからだ。彼女には不思議とそうさせてくれるところがあった。最初からウマが合っていたし。

 でも、そのヒカリもアスカの願いを叶えてはくれない。

 アスカが欲したのは、自分を見てくれなかった母が、もう一度自分を見てくれることだ。そして、母を捨てて、自分をも捨てた父を見返すことだった。

 そのためには負けてはいけなかった。負け犬は、死んだ母と同じだから。

 それなのに、彼女は負けた。彼らは自分より不幸じゃなかった。断じて、自分より努力しているとは思えなかった。

 (どうして)

 「決まっているじゃない」

 目の前に女がいた。年はよく分からない。短い茶色の髪、白い肌。顔立ちはよく見えない。誰なのかは思い出せないけれど、声が、誰かに似ている。

 「母親に捨てられた、不必要な子供だからよ」

 「違う」

 アスカは叫び返していた。

 「あたしは捨てられたんじゃない」

 「なら、なぜ負けてしまうの?あなたは最初から負けていたのよ。あなたのママは道連れに、あなたではなく、人形を選んだ。あなたは人形にも勝てなかった、負け犬でしょう。だから負けるのは必然なのよ。あの少年にも、あの女性にも、あの少女にも、どうあがいても負ける、醜い負け犬」

 「違う」

 アスカは首を振った。

 「負け犬なんかじゃない」

 「負け犬よ」

 畳みかけるようにそう言うと、彼女はゆっくりとアスカに近づいた。その指が、アスカの白い首に食い込む。

 「ゴミを排除します」

 事務的な口調の言葉が脳裏に響く。

 (あたし、ゴミなんだ・・・)

 見捨てられた絶望を感じながら、どこかで歓喜を感じてもいた。これでようやく母の元へ行ける。もっとも、ゴミの自分は母とは違う所に辿り着くのだろうが。

 「アスカちゃん。一緒に死にましょう」

 女の姿が、母のそれに変わっていた。アスカは瞼を閉じた。

 これでいい。これが正しかったのだ。自分はあの日に、母に殺されていたのだ。

 「アスカ」

 アスカは瞼を開けた。そこはあの日の病室ではなく、彼女が先日まで暮らしていたミサトの家で、・・・自分の首を絞めていたのは、シンジだった。

 シンジはものすごい形相で彼女を睨んでいた。本気で殺そうとしている。

 (シンジ)

 シンジの手を離そうと、必死に抵抗するが、息ができず、段々と目の前が暗くなっていく。落ちていく意識の中で、アスカはシンジに向かって手を伸ばした。

 (シンジ、駄目。あたしの人形なんかになっちゃ駄目)



 目覚めたとき、それまでのことが夢だった、と気付くまでに時間がかかった。そうして、ゆっくりと息を吐く。

 (何だか、あたしの弱みを一度に見せつけられたみたい)

 ベッドに寝かされていた。どこだろう、と横を向いたとき、視界に飛び込んできたのは、四、五才くらいの女の子の顔だった。左手で馬のぬいぐるみの首根っこを掴み、上目遣いでじっとベッドに横たわっているアスカを見上げている。髪を短めに切っているのがよく似合う、可愛らしい子だった。

 少女はしばらくの間、黙って、少女をまじまじと見てしまったアスカを見上げていたが、やがて、アスカが口を開きかけたのを見て、素早く扉の方へ消えてしまった。

 アスカは起き上がった。寝過ぎたためだろうか、何だか体の所々に痛みが走る。見渡すと、病院に置いてあるようなベッドが、彼女の寝ていたそれの他にももう二つある。そちらには人は寝ていない。三つのベッドが並んで置いてあり、それらが足を向けている方に簡易な診察用の机と椅子が置いてあった。灰色の棚には本とファイルが並び、どこを見ても白と灰色の空間。典型的なまでに、学校の保健室の光景だった。

 部屋の窓は開いていた。相変わらずの曇り空で、今は夕刻なのだろう、暗くなりかかっていて、風が部屋の中をそよいでいる。

 と、少女の出ていった扉から、一人の女が顔を出した。

 「ああ、本当ね。ありがとう」

 一緒にいた、先程の少女の髪をなでつつ、女はゆっくりとアスカの所までやってきた。ようく見るとそれと分かる程度に化粧をしていて、動作はきびきびとしている。白衣姿のところを見ると、医者だろうか。

 「よく眠ったわね、アスカさん。半日は眠っていたのよ」

 その笑う仕草に、見覚えはあった。

 「・・・さっきの、医者の人?」

 「ええ。原 ユカリ、といいます。ひょっとして、最初に会った時はすっぴんだったから、分からなかった?」

 愉快そうに言う原に、首を横に振った。

 「ちょっと寝ぼけていたから。そんなにものすごい化粧じゃないわ」

 「ありがとう。後でくすねた美容関係のもの、分けてあげるからね」

 アスカは微笑んで、それから日本式に軽く頭を下げた。

 「惣流・アスカ・ラングレー、です。助けてくれてありがとう。本当に、感謝します」

 思えば、こうやってかしこまって人に礼を言ったのは、久しぶりのことであった。

 「私は何にもしていないのよ。ここまで運んだのも私じゃないし。私がしたことといえば、けがの手当ぐらい。まあ、岩村さんや山県さんにしてもらうよりはましでしょうね」

 「誰なの、それ」

 「この避難所にいる、他の医師。岩村さんは獣医で、山県さんは耳鼻科。ちなみに私は小児科だけれど、まあ、年輩の方々に手当されるよりは安心でしょう」

 「いえてるわ」

 あの時目覚めてから、初めて屈託なく笑えた。

 「・・・やっぱり、似ている」

 「何が?」

 「ユカリ、・・・ユカリでいい?」

 「どうぞ」

 「ユカリの声が、あたしのママの声に似ているの」

 原はその事について何も聞かず、ただ「光栄ね」と言っただけだった。それがアスカにはありがたかった。

 原の横にいた少女が、原の白衣を引っ張ったので、彼女は少女をアスカの前に出した。

 「こちらも紹介しておかなきゃね。はい、ご挨拶は?」

 少女は馬のぬいぐるみを、今にも首がもげそうなぐらいに両手で握りしめながら、深呼吸し、大きく礼をすると、

 「時田 マナミ。五才」

 と言った。言った途端、逃げるように原の陰に隠れ、白衣にしがみつく。原は覗き込むようにマナミの顔を見た。

 「アスカお姉ちゃんと、仲良くしたいんじゃなかったの?」

 「いいの」

 すねたようにそう言うと、やはり、じいっとアスカを見上げた。アスカとしては言葉も出ない。第一、彼女は子供が嫌いなのだ。無理をしてかまう必要もないか、と、放っておくことにした。ただ、騒がしくはなさそうな子なので、その点は安心した。

 「ここはどこ?」

 「静岡県の、とある小学校。今はここの辺りに流れ着いた人達の避難所に使っているけれどね」

 「静岡!?」

 第三新東京市こと箱根は神奈川県だから、アスカとシンジは丸一週間かけて、ようやく隣の県に辿り着いていたことになる。

 「静岡の、どの辺りなの?」

 「海沿いのはず、なんだけれどね。よく知らないのよ。名古屋へ向かう途中に、サードインパクトが起こったみたいで。あちこちの地形が変わったみたいだから、地元の人に聞かない限りは分からないなあ」

 「あちこちの、って、どういうこと」

 「時田さんが、・・・ああ、このマナミちゃんのお父さんが言うには、世界各地で、大規模の爆発が起こったんだけれど、幸い、それがさらに一つとなって、地表の全てを吹き飛ばす前におさまったんですって。ここら辺りで一番ひどいのは神奈川で、もうほとんど、海に沈んだみたいよ」

 (ひどいのは当然よ)とアスカは思った。シンジの証言を信じるならば、サードインパクトの中心地は、他ならぬ第三新東京市なのだから。そういう感情をおくびにも出さなかったので、原も気付くよしもなかったようだ。

 「私としては、その時意識があった人が残らず見た、幻覚の方が気になるけれど」

 「幻覚?」

 「ええ。おそらく、本人がもっとも気にかけた女の幻覚を見るの。・・・もしくは、羽の生えた女の子」

 「変なの」

 もし、その「羽の生えた女の子」の特徴を詳しく聞いていれば、アスカの反応ももう少し違ったものになっただろうが、それっきり、この話題は口に上らなかった。

 「ところで、あたしと同じぐらいの背丈で、いかにもおとなしそうな、茶色い犬を抱えた男の子、ここに来ていませんか。名前は、碇シンジ、というんですが」

 原はその言葉に、ため息をついた。

 「やっぱり、あなたの知り合いなのね。その子の荷物なら、そこにあるわ。あなたに確かめてもらおうと思って」

 その指さした先にあったのは、間違いなくシンジが背負っていたリュックだった。

 「どうして・・・?」

 アスカのその疑問に、原は自分が見てきたものをアスカに話した後、

 「だから、あなたの知り合いのその子がどうなったのか、分からないの。病院や、その周りのどこを見ても、その子がどうなったのか、全く分からなかった。酷なようだけれど、生きているのかどうかも分からない」

 「そんな」

 アスカはうつむいたが、自分でも、顔が青くなっているのが分かった。

 「シンジが死んだかもしれない、なんて、そんな」

 「ごめんなさい、悲観的にさせてしまったか。上手く逃げ延びて、ここへ向かっているかもしれないじゃない。信じてあげなさい」

 「ええ。シンジのことだから、そうかもしれない。けれど、・・・」

 怖かった。シンジは、自分のそれまでの生活と現在とをつなげてくれる、唯一の存在だったのだ。

 彼までいなくなってしまうと、自分はこれからのことしか考えられなくなる。細い、一本の糸よりも細いつながりである彼さえも自分から取り上げてしまったこの世界で。

 一体、自分はどうなってしまうのだろう?

 「あの」

 呼ばれた方を見ると、先程のマナミが傍らまで来て、相変わらず馬のぬいぐるみの首を締めつけながら、アスカを見上げている。

 「何?」

 「あの、えっと、・・・レオをたすけてくれて、ありがとう」

 一気に述べて礼をすると、今度は原の陰に逃げたりせずに、顔を赤くしてこちらを見ている。アスカも目をしばたかせながら、

 「あ、ええ。どういたしまして」

 と、返した。「レオって何?」と原に目で尋ねると、

 「レオは、あなたとあなたの知り合いが助けた、あの犬のこと。放浪癖があってね、よくこの子を困らせていたのよ」

 と返ってきて、ようやく合点がいった。

 「助けられるように頑張ったのは、私じゃないわ。頑張ったのは、碇シンジ、っていう、私の、・・・」

 私の、何だろう?少し考えた末に、一番分かりやすい答えを口にした。

 「ま、私の同居人よ」

 「どうきょにん?」

 「一緒に住んでいた人の事。家族じゃないけれどね。とにかく、名前くらいは覚えていてあげて。あなたの友達を助けたのは、そいつだから」

 「わかった」

 神妙に頷くと、マナミは「いかりしんじ、いかりしんじ」と小声で繰り返しつぶやいた。こういうタイプって、いざシンジに会った頃にはころっと忘れているものなのよね、と、アスカは思った。

 ふと、ノックとともに、「すみません、開けて下さい」と、男の声がした。「パパだ」とマナミが駆け寄り、扉を開ける。

 「ああ、マナミ、ありがとう。そちらの夕飯を持ってきました」

 深皿の載ったお盆とともに現れたのは、原と年はそんなに変わりないだろう男だった。なるほど、マナミと比べて見ると、顔立ちがどことなく似ている。

 「紹介するわ。時田シロウさん。サードインパクト前から、私のご近所さんだったの」

 アスカは時田と礼を交わすと、盆を運んでもらった。

 「陸奥君の作った、ミルク粥です」

 「本当!?」

 アスカは目が丸くなった。

 「ええ。おそらくあなたは向こうの生活が長い人だろうから、と言って。当たってましたか」

 「当たってます。中身はパン?」

 「そうです。幸い、パン焼きの専門家もいますから」

 「本当、今はそういう専門家の方がありがたいかな」

 そう言いつつ、原はミルク粥のよい香りを、目を細めてかいだ。

 「相変わらず、陸奥君は上手いわね。気もきくし。時田さん、マナミちゃんの旦那にしたら」

 「それはもったいないですよ。ほら、アスカさん、冷めない内にどうぞ」

 言われて、アスカは「いただきます」とスプーンを取り、牛乳に浸されたパンをすくって食べた。確かにおいしい。

 久しぶりに口にしたまともな食事のため、早食いになりそうなのを、「ゆっくり食べなさい」と原が言ったため、おとなしく、そしてしっかりと食べた。

 粥の温かさが体を伝わっていくにつれ、アスカは自分が、心からくつろいでいるのを感じていた。考えてみると、ここでなら、今までの自分を忘れる事ができるかもしれない。今度こそ、自分が必要とされる空間を持つ事ができるかもしれない。

 もちろん、これまでの事を、完全に忘れきる事はできなかった。心を閉ざしていた時の彼女は、まさに完全に忘れきる事ができなかったからこそ、まわりから心を閉ざしたのだから。

 だが、今は不思議と、自分を縛り付けているものが、この時は気にもならなかった。

 「お代わり、ありますか?」

 「もちろん。すぐに持ってきます」

 「あ、今度は私が持ってきましょうか。だれか来たら、すぐに呼んでね」

 そう言って、時田から空の皿が載った盆を取り上げて、原は出ていった。靴音が遠ざかり、やがて消えると、時田は苦笑した。

 「ところで、アスカさん、・・・失礼ですが、姓名は」

 「惣流・アスカ・ラングレー、ですが」

 「やはり」

 時田は肯いた。

 「エヴァンゲリオンパイロット、セカンドチルドレンですね」

 アスカは信じ難い思いで、時田をまじまじと見た。

 「どうして、その事を知ってるのよ!?」

 今や、敬語も忘れた少女に、時田は真面目腐って答えた。

 「実は、失業した先の会社が、あなたがたネルフの、いわば商売敵でしてね。私はそこの中心者でした。その関係上、ネルフの内部情報も、なまじな関係者よりよほど詳しく知っています」

 「へえ・・・。そうなんだ」

 アスカにとって、それは初耳であった。

 「ええ。エヴァに代わる、無人で人型の戦闘機を開発する計画に携わっていたのですが、計画がこれ以上はないくらいの惨めな形で失敗してしまい、責任を取らされて職を失ったのですよ。葛城作戦部長か、赤木博士ならこの事をよおくご存知のはずです」

 ふと、時田は遠い目をした。

 「思えば、あれは私の人生の絶頂だったのでしょうね・・・」

 「あれ」とは、大勢の面前でミサトとリツコを(正確にはネルフを)けなした事だとは、アスカは夢にも思っていない。

 「無人の人型戦闘機、か。ちゃんと完成すれば、いいものになったかもね」

 「私もそう思っていました。少なくとも、予算はできる限り少なく、加えて誰かを犠牲にするようなものを造ってはいけない、と」

 「犠牲?」

 「実際に載っていたあなたに向かって、こんな事を言うのは何ですが」

 時田は、疲れて寝ているマナミの頭に手を置いた。

 「世界の存続を賭けた戦闘を、子供に任せてはおけない、そう思っていました。もっとも、そう志していたのは最初だけで、すぐに、利権目当ての人間達の毒に染まってしまいましたがね」

 ゆっくりと息を吐き出す。

 「同行者は、碇シンジ君、・・・サードチルドレンでしょう」

 「ええ」

 アスカは頷いた。

 「サードインパクト前の戦略自衛隊投入とサードインパクトによって、ネルフが壊滅したことは間違いないの。けれど、誰が死んで、誰が生きているのか、私にもわからない。気がついたら、海岸に二人だけだった」

 「では、あのお二方、・・・葛城さんと赤木さんも」

 再びアスカが頷くと、時田は「嫌なことを思い出させてしまいましたか」とぼやいた。

 ふと、肌寒さを感じて、アスカは手元のシーツを引き寄せた。それを見ていた時田も娘にシーツをかけてやりながら、

 「寒いでしょう。最近、日が照らないので、冷えてきたのですよ。夜間は特にね」

 「あたし、サードインパクトが起こってから、日が照ったところを見たことがない」

 時田は相づちを打たなかった。窓の側へ行ってカーテンを閉めると、

 「あなたが頼るべき所なら、私にも心当たりはあります」

 と言った。



 次の日、アスカはマナミにこの避難所の各部を案内してもらっていた。どこも統制が取れており、少しも無駄がない。今はあちらこちらから必要品を奪ってくることで精一杯だが、その内、自給自足の体制も整うだろう事は予想された。

 感心する一方で、アスカは、昨日の時田の言葉を何度も反芻していた。

 (この静岡にも、ネルフの支部があるのですよ。もちろん、小規模ですし、自衛隊に制圧されていることは間違いないでしょうが、ひょっとしたらサードインパクトの被害は皆無かもしれません)

 (どういうこと)

 (まだ、機能が作動している、という意味です)

 支部からなら、本部との連絡が取れるかもしれない。けれど、連絡を取って、それでどうなるというのだろう?大体、第三新東京市は海水に没しているというのに。

 それに、シンジは一体、どこへ行ってしまったのだろう。

 「ねえ」

 気がつくと、マナミが袖を引っ張っていた。

 「きいている?」

 「ごめん、ちょっと考え事してたから、聞いていなかった」

 「何をかんがえていたの」

 「ちょっとね。あたしにも、できることはあるかな、って」

 「いっぱいあると思うよ」

 あまり力強く断言するので、アスカは思わず笑ってしまった。

 「なんで笑うの」

 「本当にそう思うの」

 「あたりまえじゃない。アスカお姉ちゃんって、大学もでているし、りっぱなお仕事もしていたんでしょう。あたし、すごいと思うもん」

 「そうね。・・・そうかもね」

 言いながら、アスカは自分の身の上を思った。人がうらやむものを持ちながら、何一つ満足することが出来なかった。その自分に、今度こそ納得できるだけのことができるのだろうか。

 初めて、天に祈りたい気分で、アスカは雲がかかったままの空を見上げた。



 「兄い」

 波音が響く中、日に焼けた、十才ぐらいの少年が岩場を走っていた。

 「釣果はどうだ?」

 「駄目だな。今日はしけてるや、諦めろ」

 あにい、と呼ばれたのは、二十歳前後の、嫌に肌が生白い青年だった。服を着込み、帽子もしっかりと被っている。少年の肌黒さとはひどく違う。

 「何だよ。今日も魚抜きかよお。兄い、釣りの才能、無いんじゃないの」

 「釣れてもお前の分は無しな」

 「何だよ、ケチ」

 「だったらごちゃごちゃ突っかかるな。贅沢言わずに、カンパンでも食え」

 青年はそう諭そうとするが、少年の、食欲への果て無き欲求は、それぐらいでとどまるものではなかった。単に食い意地が張っているともいう。

 「やだよ。俺は魚がいい」

 「なら、お前が自分でとれよ」

 「おう、とってきてやる」

 言ったが早いか、少年は着の身着のままで海に飛び込んだ。

 「おい、馬鹿」

 青年は釣り竿を引き上げると、少年が飛び込んだ方を覗き込んだ。間もなく、少年が顔をあげる。

 「駄目だ、とれねえ」

 「当たり前だ。素手で簡単にとれてたまるか」

 と、引き上げようとした時、青年の目に、奇怪なものが見えた気がした。前方をよくよく見てみる。

 「おい、あれ見てみろよ」

 「ん?」

 少し先に、何やら浮かんでいるのが少年にも見えた。どうも、人らしい。

 「みんなに知らせようか」

 「馬鹿。んな悠長な事態か。俺が行く」

 青年は帽子を脱いだだけで、すぐに海に飛び込む。あっという間に問題の物体に近づき、少しずつ陸地へ戻り、どうにか少年の助けも借りて、引き上げることができた。

 髪の長い、二十代半ばほどの男だった。軍隊のではないが、どこかの制服を着ている。陸に引き上げてやると、程なくして海水を吐き出し、呼吸を取り戻した。

 男は最初、意識が朦朧としていたが、二人が呼びかけると、まずまずの反応を返した。

 「とりあえず、俺たちの家に運んでやるからな」

 「ああ。・・・すまない」

 二人はそこで、ようやく一息ついたが、この男が何者なのか、それを知ることが自分達にどういう結果をもたらすのか、知る由もなかった。



 続く



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